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【THE REAL】鹿島アントラーズのナビスコカップ制覇と小笠原満男の大会最年長MVPの価値

オピニオン コラム
小笠原満男 参考画像(2015年2月25日)
  • 小笠原満男 参考画像(2015年2月25日)
  • 小笠原満男 参考画像(2015年2月25日)
  • 遠藤保仁 参考画像(2015年10月21日)
  • 小笠原満男 参考画像(2002年2月19日)
  • 小笠原満男 参考画像(2011年5月10日)
  • 小笠原満男 参考画像(2005年8月17日)
  • 小笠原満男 参考画像(2006年10月21日)
  • 小笠原満男 参考画像(2008年3月19日)
アントラーズの歴史をひも解けば、他のJクラブの追随を許さない17個もの国内主要タイトルのうち、小笠原たちの世代は実に14個をチームの一員として目の当たりにしてきた。

「でも、僕たちは決していい思いばかりをしてきたわけじゃない。アントラーズでも代表でも、悔しい思いをたくさんしてきた。ユースや五輪代表、そして日本代表を含めていろいろな経験をして、今日のような試合を何度も戦ってきたことが、僕たちの世代の強みだと思う」

小笠原が振り返るように、ジーコ監督に率いられた日本代表では中田英寿や中村俊輔をはじめとするヨーロッパ組が合流すると、決まって中盤における小笠原の序列が下がった。


2005年の小笠原

曽ヶ端はワールドユース選手権が開催されたナイジェリアまで帯同しながら、第3キーパーという立場もあってベンチ入りを果たせなかった。楢崎正剛(名古屋グランパス)がオーバーエイジで招集された2000年のシドニー五輪では、守護神を務めたアジア予選から一転してベンチを温めている。

小笠原は2002年大会と2006年大会、曽ヶ端も2002年大会のワールドカップ日本代表に名前を連ねたが、28の代表キャップをもつ本山は4年に一度のヒノキ舞台と無縁のままいま現在に至っている。

アントラーズにおいても、彼らがレギュラーとして活躍しはじめたのは入団3年目の2000年シーズン以降。宿敵ジュビロ磐田と繰り広げられた壮絶なチャンピオンシップを制し、年間王者に輝いた1998年シーズンはほとんど試合に絡むことなく終えている。

「トロフィーを掲げながら大の男たちが抱き合っている姿を見て、自分もあの舞台に立ちたいと思った。それだけ優勝って素晴らしいものだし、またああいう経験をしたいという思いが選手を成長させる。自分も上の年齢の人たちに引っ張ってもらいながら、タイトルを取ることで成長させてもらってここまで来ることができた。タイトルを取った者にしか見えない景色があるとも思うし、今日をきっかけに再びタイトルを重ねられるように。もちろん、ひとつ取ったくらいで満足しちゃダメだけど、このタイトルは今後のアントラーズを見る上で非常に大きな意味をもつと思う」


2006年、メッシーナ時代の小笠原

ポジションは与えられるものではなく奪うもの――。弱肉強食のプロの世界の掟に則って小笠原はビスマルクから司令塔の座を勝ち取り、セリエA・メッシーナへの期限付き移籍から復帰した2007年夏からはボランチにポジションを下げて、攻守両面でにらみをきかせる鬼軍曹の役割を本田泰人から引き継いだ。

アントラーズの創成期を彩ったレジェンドたちから託されたバトン。本来ならば前人未踏のリーグ3連覇を達成した2009年シーズンをもって、次を担う世代に受け継がれるはずだった。

しかし、順調に成長していた筆頭候補のDF内田篤人は2010年夏にブンデスリーガのシャルケへ移籍。ルーキーイヤーからコンスタントにピッチに立ち続け、2年目の2010年シーズンから背番号9を託されたFW大迫勇也も、2014年1月にドイツへ新天地を求めた。

【鹿嶋アントラーズのナビスコカップ制覇と小笠原満男の大会最年長MVPの価値 続く】
《藤江直人》

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