「私は元気が不得意とする部分を常に求めてきたので、彼にとっても簡単な時期ではなかったと思う。それまでの元気は、そういった部分を求められなかった。若いころはチームが負けても彼がゴールを決めれば注目されていたが、この2年半でサッカーにおいては何が重要なのかを学んだ。プレースタイルが広がり、ボールをもっているときだけでなく、オフ・ザ・ボールの動き、あるいはチームのために献身的に守備をする精神を学んでくれた」
ペドロヴィッチ監督のもとで、原口は得意とする左サイドだけでなく、右サイド、トップ下、ときにはワントップも務めた。泥臭いプレーも厭わなくなった自分自身の変化を喜び、指揮官に感謝したこともある。
「何度も何度もぶつかりながら、接してくれたミシャ(ペドロヴィッチ監督の愛称)には本当に感謝している。ミシャのおかげで、ストロングな部分だけの選手ではなくなった」
指揮官と根気強く対話を重ねて自己改革を施し、やんちゃぶりを武器に変えてきた過程で芽生えたのが、ヨーロッパに挑戦したいという思いだった。
出場資格のあったロンドンオリンピックの代表から漏れ、ザックジャパンにも定着できなかった2012年シーズンあたりから、「何が足りないのか」と自問自答を繰り返すようになった。

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