アントラーズがJ1最多の17個ものタイトルを獲得。今シーズンもナビスコカップを制したのに対して、サンフレッチェも2012年シーズン以降の4年間で3度もJ1の頂点に立った。
■まだまだ完成した形じゃない
長期的および短期的な視野において、両クラブはともに無類の強さを発揮している。指揮官が変わっても不変となるベースが築かれている点は、決して偶然の一致ではないだろう。
だからこそ、「可変システム」の生みの親となる34歳の森崎和は、自分たちのサッカーに矜持を込める。
「このサッカーが、イコール、広島のサッカー。おそらくまた相手に研究されてくると思いますけど、それを上回っていくようなことを考えて、ピッチの上で実践していけばいい。湘南戦のような試合が何度もできるようになれば、チームとしてもっと完成形に近づくことができる。僕個人が思うには、まだまだ完成した形じゃないと思っているので」
史上4チーム目の連覇を達成した翌年の2014年シーズンは、一転して8位に甘んじた。しっかり守ってから速攻、という攻撃パターンがライバル勢に研究し尽くされた末に苦杯を味わわされたからだ。
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翻って2015年シーズンは、ファーストステージを通じて遅攻の精度を高めた。セカンドステージに入ると、試合を重ねるごとに速攻でもミスが減っていった。二刀流の戦いができたからこそ、シーズンを通して最後は2位以下を制圧することができた。
J1が18クラブ体制となった2005年シーズン以降で、年間を通して積み重ねた勝ち点74は史上最多。23勝も最多タイ記録で、1試合平均2得点以上(73得点)と1失点以下(30失点)を同時に達成した初めてのクラブとなった。年間王者獲得にもっともふさわしい「強さ」を発揮し続けたシーズンだった。
昨年2月、サンフレッチェの社長が急きょ交代した。広島市長選挙に出馬した前社長からバトンを託されたのは、2001年から強化部長を務める織田秀和氏。前身のマツダでボランチとしてプレーし、長崎日大高校から1987年にマツダ入りした森保監督が、同じポジションで目標として掲げた先輩でもある。
■自分たちからアクションを起こせるサッカー
スタッフとしても生え抜きの選手出身者が、組織のトップに就任するのはクラブ史上初。ペドロヴィッチ前監督を招聘し、J2へ降格した際も続投させ、森保監督就任にも尽力した54歳の織田社長は、いままさに黄金時代を迎えたサンフレッチェの未来をこう描く。
「必ずしもいまの『3‐4‐2‐1』の形にこだわっているわけではない。ただ、いまのチームは攻守のバランスが非常にいいので、バランスを保ちながら、なおかつリアクションではなく、自分たちからアクションを起こせるサッカーは続けていきたい。その上で3バックになろうが4バックになろうが、私としては別に構わないと思っています」
森保監督を招聘したときも、決して前任者の路線を継続することを条件にはしていない。5年半もの時間が費やされたそれまでの軌跡を森保監督自らがリスペクトし、守備面でアレンジを加えた。
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引くときと攻めるときの判断、そして攻められていても実は主導権を握る戦いを演じるための判断を託されているのは森崎和。織田社長をして「自分たちからアクションを起こせるサッカー」のキーマンとなる生え抜きを、森保監督はこう呼んではばからない。
「現場監督!」
このまま結果を出し続ければ、森保監督の前には次なる挑戦の舞台、日の丸を背負う戦いへ通じる扉が開くだろう。それでも、いまのサンフレッチェには社長から現場を預かる指揮官、そしてピッチ上でタクトをふるう現場監督へ、確固たる「芯」が通っている。
一枚岩と形容される組織は、絶対に進むべき道を見失わない。チャンピオンシップ後に開催国代表として臨んだ、FIFAクラブワールドカップで3位に食い込んだ快挙は決して偶然ではない。来シーズンを含めた未来へ。真っすぐに伸びたベクトルが、新たな強さを生み出していく。