東京都の多くの高校野球ファンに、「この都立校は、いつか本当に甲子園に行くぞ」と思わせた。それだけの気迫と思いがこもった戦いを見せた。
その2年後に国立がするすると勝ち上がって甲子園初出場を果たしたことで、東大和は都立校の甲子園第1号にはなれなかった。しかし、「都立の星」として広く知られるようになったとともに、多くの都立校にその可能性を現実味と感じさせたことも大きかった。
1985年夏にも西東京大会準優勝。またしても甲子園には届かなかったが、東大和の存在は十分に知らしめた。しかし、その後も甲子園出場は果たせないままだ。東大和も、当時の佐藤道輔監督(その後、東京都高校野球連盟理事。『甲子園の心を求めて』などの著書でも知られる)の退任後、その教えと思いを引き継ぎながらも、チームとしては春季、秋季の東京都大会に出られないということもあった。OBたちからも、「東大和の野球は終わってしまったのか」などと言われた時代もあった。

東大和の横断幕
それでも2010年に片倉から異動してきた福島靖監督は、伝統校としてのOBたちのプライドを維持させながら、新しい東大和として復活を目指した。その成果が徐々に表れるようになって、春季大会や秋季大会の一次予選では会場校として段取りよく訪れた各校を案内しながら、保護者や観戦に訪れた人たちにも心地よく観戦してもらえるような配慮も心掛けた。
また、東大和の原点とも言われている全員の足並みがそろって、地鳴りのような声を出しながらのランニングにはこだわった。結果も着実についてくるようになった。そして今年(2016年度)のチームは、秋は一次予選3試合をすべて完封勝ちで本大会へ進んだ。さらに、春季大会では強豪の駿台学園にリードされながらも8回に追いついて、9回逆転サヨナラ勝ちするなどの粘りを見せた。ベスト16で帝京には9-10で敗れたものの夏のシード権を獲得した。
そんな粘り強い戦いにこの夏の期待も高まっていた。3回戦で桐朋を完封して挑んだ4回戦の早稲田大学院戦。相手の評判の好投手柴田迅君の140キロ超と言われるストレートに対しても十分に対策を練ってきた。その成果もあって、決して振り負けてはいなかった。

立ち上がりにエース藤原君が先頭打者に初球死球を与えて、やや力みが出てしまい失策も絡んで2点を失っていたが、3回には6番小林君が練習の成果を発揮してその失点をきっちり取り返した。こうして試合を振り出しに戻した。
以降は緊迫の攻防が続いたが、7回に早大学院の代打策が当たって2点が入り、8回にも2点を追加された。それでも9回には粘りを見せた。一死から3番の青柳義君が3年間の思いのたけをぶつけた三塁打で出ると、4番を任された錦戸君も意地を見せてタイムリーを放って1点を返した。そのままズルズルとは負けない粘りを示した。しかし、最後は柴田君にねじ伏せられて涙をのんだ。

シートノックする福島靖監督
福島監督は試合後、大きく息を吸い込んで少し天を見上げてから口を開いた。「粘りを出し切れませんでした…。悔しいですね、本当に…。めったにないくらいにいいチームになったと思っていました。いい感触もありました。だから、この子たちと、もっと野球をやりたかった。勝たせてあげられませんでした」悔しさをにじませていた。
それでもエース藤原君に対しては、「気持ちのしっかりした、いい子です。本人も、もっと上(大学)で野球を続けたいと言っていますから、どこか声を掛けてくれるところがあれば、上でやらせてあげたいと思っています」と今度は教員として、生徒の進路について想いを巡らせていた。
負けた瞬間から、次が始まる。それもまた高校野球の現実なのである。こうして元祖「都立の星」は、この夏もさわやかに散っていった。