心に巣食っていたわだかまりが消えるとともに、サッカーへの情熱が再び芽生えてくる。越境入学した鳥取の地で再開させたサッカー人生はしかし、2年生に進級する直前の2009年春に2度目のターニングポイントを迎える。
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昌子源
国体鳥取県選抜の一員として、ガイナーレ鳥取と練習試合に臨んだ後半。センターバックにケガ人が出たことで、県選抜の監督を務める中村コーチの指示を受けた昌子はそれまでのフォワードから急きょ初体験のポジションに回った。
当時のガイナーレには、コン・ハメドというコートジボワール人のフォワードが在籍していた。無我夢中の思いもあったのだろう。168cm、75kgと小柄ながら圧倒的なパワーとスピードをあわせもつ5歳年上のハメドと、昌子は壮絶な1対1を展開する。
■仕方なく受け入れたコンバート
一夜明けて、昌子はセンターバックへの転向を中村コーチから命じられる。文字通りの青天の霹靂。城市徳之監督にかけあっても状況は変わらない。
「本当に嫌だった。フォワードをやらせてほしいとずっと思っていた」
宇佐美が高校2年生にしてトップチームへの昇格を果たし、「ガンバユースの最高傑作」として眩いスポットライトを浴びていた時期。嫌々ながら受け入れたコンバートがプロへの扉を開いてくれるとは、当時の昌子にとっては夢にも思わなかったはずだ。
3年生になるとU‐19日本代表候補にも名前を連ねるなど、センターバックとしての潜在能力を一気に解き放っていった昌子は2011年春、名門アントラーズの眼鏡にかなって入団を果たす。同期には「鹿島の心臓」と昌子が畏敬の念を抱く、ボランチの柴崎岳がいた。
プロとして同じ土俵に立てたのもつかの間、すでにガンバで主軸を担っていた宇佐美は稀有な才能を見込まれ、2011年7月にブンデスリーガの名門バイエルン・ミュンヘンへ期限付き移籍する。ピッチ上で邂逅を果たすまでには、さらに3年余りの時間を要さなければならなかった。
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バイエルン・ミュンヘン所属時の宇佐美貴史
迎えた2014年10月5日。カシマスタジアムで行われたJ1の第27節で、ふたりは敵味方にわかれて初めて対峙する。柴崎とともに世代交代へのキーマンとなった昌子は、アントラーズの最終ラインを支えてきた歴代のセンターバック、秋田豊と岩政大樹が背負ってきた「3」番を託されていた。
「サイズからプレースタイルから当時とまるで違う。(昌子)源があんなふうになっていくなんて、当時は誰も想像していなかったと思うんですよね」
こう語っていた宇佐美はバイエルンからホッフェンハイムへ再び期限付き移籍するも、満足できる結果を残せずにガンバへ復帰していた。
【ナビスコカップ決勝の大舞台でまじわる、宿命に導かれた直接対決 続く】