このときのPKは、ゴールキーパー山根恵里奈(ジェフユナイテッド千葉レディース)のファインセーブで事なきを得た。肝を冷やした一方で、こうも思ってしまった。京川のスピードだからこそ、相手選手に追いつけたのではなかったか、と。
京川のプレーは、日本代表の右サイドバックとして長く活躍してきた内田篤人(シャルケ)をも彷彿とさせた。
清水東高校時代の内田はスピードとテクニックを兼ね備えた司令塔だったが、相手の厳しいマークに前を向けず、プレーがどんどん消極的になる悪循環に陥っていた。
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内田篤人
そうした状況を打開するために打ち出されたのが、右サイドバックへのコンバート。前方にスペースが広がっているほうがスピードを生かせると確信していた当時の梅田和男監督は、一方でこうも語っていた。
「たとえ裏を取られても、篤人のスピードなら追いつけましたからね」
果たして、背番号「10」のまま右サイドバックで躍動した内田は鹿島アントラーズの目に留まり、加入して5年目の夏にドイツへと飛び立っていった。
年代別の日本代表で点取り屋役を任されてきた京川は、U‐19女子日本代表が優勝した2011年のU‐19女子アジア選手権で得点王とMVPにも輝いている。
もちろん今後の精進次第となるが、鮫島や近賀、今回の女子ワールドカップでシンデレラとなった有吉佐織(日テレ・ベレーザ)、そして内田とはまた違ったサイドバックを演じられる可能性を秘めているといっていい。
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時計の針を、3年5カ月前の2012年シーズン序盤に戻す。
アルガルベカップでなでしこジャパンデビューを果たした京川は、INAC神戸のルーキーながらレギュラーの座をゲット。開幕から4試合で5ゴールをあげて、得点ランキングのトップに立つ大活躍に、佐々木監督はロンドン・オリンピック代表への大抜擢を示唆したほどだった。
しかし、好事魔多し。直後のリーグ戦で左ひざの前十字じん帯を断裂し、さらにはじん帯と半月板を損傷する全治6カ月以上の大ケガを負ってしまう。翌2013年シーズンに復帰を果たした直後にも、同じ箇所を痛めて再びメスを入れる悪夢に見舞われた。
【京川舞が胸中に同居させた悔しさと二刀流への決意 続く】