【オーストラリアの風景】彩(いろどり) 重視の日本食を伝える | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【オーストラリアの風景】彩(いろどり) 重視の日本食を伝える

オピニオン コラム
この数年でアデレードには日本食と掲げるレストランが増えてきたように見える。看板には、日本食と書かれていたり、また名前が日本を感じさせるものであったり。

店内に入ると、日本語のイントネーションではない「いらっしゃいませ」が聞こえてくる。

日本人ではないアジア人が店舗を構えているのである。彼らは、日本食と掲げることで、顧客が取れることを知っているのかも知れない。アジア人は、常に利益の出ることを考えている。日本食と表記しているにも関わらず、店員、店内の内装、味は日本食とは若干違う場合が多く、値段は比較的手ごろなものが多い。そのせいか、家族連れや若いカップルが目立つ。

南オーストラリアでは、日本人が経営している中国料理や他のアジア料理屋を見かけたことはないが、前述のように他のアジア人が経営している日本料理屋は多い。

日本人が作らなくとも、日本料理と掲げれば、日本料理屋なのである。また本来の日本の味からは少しかけ離れていたとしても、オーストラリア人(を含む西洋人)から見ると、日本食レストランで初めて口にした食べ物が、日本の味だと思ってしまう。

しかし、日本人の私にとっては、それらが日本食とは認めきれない何かがある。

彩(いろどり)、この一文字が、彼らの作る日本食と、日本人がこだわって作り上げた日本食との違い。懐石料理などに代表されるように、ただ単に食べるということだけではなく、視覚も日本料理の楽しみの一つではないだろうか。

知らず知らずのうちに、見て楽しむという食文化の中で育ってきた私には、それが表現できていない料理はたとえ日本料理と謳っていても、それを認めるには若干の抵抗があるように感じる。

成長の過程で、自然と身についた彩のセンスを伝えることは、簡単なことではない。しかし、それを伝えることができるならば、更に日本料理の良さを伝えることができるのではないだろうか。
《さくら 麻美》

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