新連載【五輪への提言】オリンピック出場より自分を高めることに集中…朝日健太郎さん | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

新連載【五輪への提言】オリンピック出場より自分を高めることに集中…朝日健太郎さん

スポーツ まとめ
朝日健太郎さん
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朝日健太郎氏。バレーボール日本代表で活躍し、ビーチバレーボール日本代表として北京、ロンドンと五輪に2大会出場、日本人として新たな道を切り拓いてきた。

目下ワールドカップバレーボールが開催中。女子に引き続き、本日9月8日より男子日本代表が登場、活躍に期待がかかる。朝日さんはフジテレビ地上波「FIVB ワールドカップバレー」の副音声で解説を担当する。

本誌では連載「五輪への提言」をスタートする。過去に五輪に出場した経験者を中心に、言葉を集める。2020年の東京オリンピック/パラリンピックに向けては、新国立競技場問題にはじまり、エンブレム問題など、周辺の取り組みは前途多難と言わざるを得ない。しかし、1964年の東京五輪を境に、日本が勢いを増し、結果五輪が大きな契機、ステップになったことも事実。2020年にかかる期待は決して小さくない。

連載1回目は朝日氏に言葉を紡いでもらった。バレーボールとの出会い、日本代表選手の精神状態、アスリートとしての構えなど、日本人として前例のない結果を出した朝日氏の考え方と、五輪の捉え方を訊いた。

---:朝日さんは選手時代、バレーボール日本代表と、ビーチバレーボール日本代表という、関連しながらも違う競技で日本のトップアスリートとして活躍されました。五輪出場経験がありますが、選手時代の五輪に対する思い、目標としての五輪、出場している最中とはどのようなものだったのか、振り返って教えていただけますか。

朝日健太郎氏(以下敬称略):オリンピックがもちろん、アスリートとしての最大の目標というのは間違いないのです。が、実はオリンピックというものは、はるか遠くすぎて現実的な目標としてとらえにくいのですね。ここが一番のアスリートの課題なのですが、対象が大きすぎて、というのが本音であって。おぼろげにオリンピックは見据えているんだけれども、そこに向かって邁進しているというよりも、日々、目の前のものをクリアし続けていった結果、オリンピックに到達できたなという。

だから、出場が決まった瞬間は達成感もすごくありましたけど、逆に言うとそこで息切れしなかったのが良かったなと。オリンピック出場が決まったことは通過点。実際にコートに立ったときの感動とか、喜びというのは、いままでの競技人生のなかでは体感したものとは比較にならない興奮なども得られたので。オリンピックってすごいなあ、と思ったのですが。

ただ、いま振り返ってみると、オリンピックに出場したことそのものも、通過点だったなと感じています。

---:オリンピックが目標として「大きい」というのは、もう少し噛み砕くとどのような意味の「大きさ」なのでしょうか。

朝日:そうですね、僕のなかで目標としての「大きさ」というのはタイプがいろいろあって、オリンピックの価値をしっかりと理解した上で、オリンピックという「大きい」ものを目標として設定するパターン。もうひとつは、社会的な、第三者も含めた価値観で「オリンピックって一番だよね」的な空気のなかで感じる「大きさ」があると思っています。自分が感じていたオリンピックの「大きさ」は、後者ですね。

だから、腹の底から「オリンピック行きたいか?」といえば、行きたいといえば行きたいのだけど…という感じでね。

---:朝日さんの様子からは、現役時代はオリンピックという目標にあまり入れ込んでいなかったように感じます。

朝日:確かに入れ込んでいないですね。世の中的にやはり聞こえて来やすいのは、オリンピックに向けてアスリートが入れ込んだストーリーが多いので、そのギャップは自分自身感じていました。いま、ワールドカップバレーボールがやっています。オリンピック出場権をかけて、どの国も必死に戦っています。

僕の持論なのですが、オリンピックに出ることをフォーカスしすぎるとあまり良くないな、という思いがあります。ターゲットがそこに集中しちゃうと、すごく息苦しいし、ストレスもかかるし。逆で、どうすればもっと自分たちを高められるかとか、どう自分の力を発揮するかというところに軸足を置いた方が、結果オリンピックというところにも到達、クリアできるというようなイメージですね。

---:振り返ると、朝日さんご自身は、自己の能力向上や、勝負所での能力発揮に主眼を置いて競技に取り組まれていたという形ですか。

朝日:ビーチバレーでいうと、オリンピックはもちろん大きな大会ですけれど、賞金も出なければ決して儲からないわけですよ。ですので何をやっていたかというとワールドツアーで世界を日々転戦しながら、予選負けして賞金ゼロとか、泥臭い試合してランキングひとつ上がって、5000ドルゲット、みたいな。そういう繰り返しでしたので、そっちの日々の戦いを必死にやっていた記憶が強く残っています。
《土屋篤司》

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