【THE REAL】湘南ベルマーレのアンドレ・バイアが魅せた崇高な心…未来へ紡がれる歓喜のタッチ | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE REAL】湘南ベルマーレのアンドレ・バイアが魅せた崇高な心…未来へ紡がれる歓喜のタッチ

オピニオン コラム
アンドレ・バイア 参考画像(2014年10月4日)
  • アンドレ・バイア 参考画像(2014年10月4日)
  • アンドレ・バイア 参考画像(2014年9月25日)
  • アンドレ・バイア 参考画像(2009年11月22日)
■ボールボーイと交わした歓喜のタッチ

ゴールを決めた選手が興奮を抑え切れず、サポーターが待つゴール裏のスタンドへ駆け寄って喜びを分かち合う。サッカーでよく見られる光景のなかで極めて珍しく、それでいて微笑ましくなる瞬間があった。

湘南ベルマーレが2‐0で東京ヴェルディを一蹴して、首位の座をキープした16日のJ2第23節。DFアンドレ・バイアが後半17分に利き足の左足から豪快な一撃を叩き込み、先制した直後だった。

「ゴールを決めることは、サッカー選手にとって最大の喜びだからね。ファンやサポーターの方々にはなかなかこういうシーンを見せられる機会がなかったけど、これからは増やしていきたい」

MF秋野央樹が蹴った左コーナーキック。バイアがファーサイドから折り返したボールを、FWジネイが相手ゴールに背を向けながらキープする。その間に左側へ回り込んだバイアはパスを胸で受け、ボールの落ち際に左足を振り抜いた。

21試合目にして決めた今シーズン初ゴール。来日して3年目でも3ゴール目という希少価値の高さが、感情を爆発させたのか。普段は冷静沈着な33歳のベテランが、雄叫びをあげながら全力で走り出す。

視線の先には、チームカラーの緑と青で染まったホームのゴール裏があった。待望の先制点に狂喜乱舞するファンやサポーターを一直線で目指したはずのバイアはしかし、途中でほんのわずかながら右へそれる。

目の前にはボールボーイが座っていた。小学校の低学年くらいの男の子が喜んでいる表情が、おそらく目に入ったのだろう。バイアはおもむろに右手を差し出し、男の子に合わせて腰のあたりから伸ばした。

次の瞬間、男の子の右手と歓喜のタッチが交わされる。ゴール裏へ向けてバイアがさらに加速していったとき、ボールボーイは「やった!」とばかりに右手を突き上げ、ガッツポーズを繰り返していた。

■ファンやサポーターに丁寧に接する理由

母国ブラジルのボタフォゴから加入して3シーズン目。バイアは日々の練習から、ファンやサポーターに人一倍、丁寧に接してきた。笑顔でサインや写真撮影に応じる理由を、こう語ってくれたことがある。

ボタフォゴ時代
(c) Getty Images

「ファンやサポーターはクラブに欠かせない宝物のひとつだし、どのチームにいても常に大切にしてきた。自分も幼かったころは、生まれ育ったリオデジャネイロにあるクラブのひとつ、フラメンゴの大ファンだったし、フラメンゴの選手にサインをもらったときは本当に嬉しかったからね。

自分が結婚して子どもをもつようになったいま、同じくらいの年齢の子どもたちにとってのアイドルになれるように、といつも思っている。一人の大人、そして一人の父親として、子どもたちが喜んでくれるような姿を見せていきたい。だからこそ、特に子どもたちを大事にしたいんだ」

試合を円滑に進行させるために配置されるボールボーイは、地元の子どもたちが務めることが多い。ホームチームの選手たちに憧れの眼差しを向け、彼らを間近で見られることに胸をときめかせる。

もちろん仕事で手を抜くわけにもいかないから、常に緊張感を強いられてもいる。だからこそバイアが見せた優しさが、一緒の仲間なんだというエールが、タッチを交わした右手を介して伝わってきたはずだ。

ボールボーイを務めた男の子には、一生忘れられない思い出になったはずだ。もしかすると、将来はサッカー選手になるという夢を描いたかもしれない。そう考えただけで、微笑ましくなってくる。

オランダの名門フェイエノールトに8年間も在籍した。当時の大倉智代表取締役社長(現いわきFC代表取締役)が明かした、バイアを獲得に至った理由があらためてよくわかる。

「外国人選手がそれだけ長くプレーできるのは、人格的にも非常に優れているからです」

■日本でのプレーを決意させた不思議な縁

ベルマーレの一員になったのは偶然ではなく必然だった、と自分のキャリアを振り返ったことがある。フェイエノールト時代に2人の日本人選手と邂逅し、大きな感銘を受けたからだ。

初めて海をわたった2004年夏に、MF小野伸二(北海道コンサドーレ札幌)の存在感に目を奪われた。2011年1月には、アーセナルから18歳のFW宮市亮(ザンクトパウリ)が期限付き移籍で加入してきた。

「シンジ(小野)とは1年半、一緒にプレーしたけど、技術のクォリティーの高さにとにかく驚かされた。リョウ(宮市)がいたのは半年間だけだったけど、とにかくスピードがあった。2人の影響もあって、日本のニュースやドキュメンタリー番組をよく見ていた。いつか日本に行くんじゃないかと思って」

フェイエノールト時代
(c) Getty Images

サムスンスポル(トルコ)をへて2013年に移籍したボタフォゴでは、鹿島アントラーズをリーグ3連覇に導いた名将オズワルド・オリヴェイラ監督の薫陶を受けた。日本への思いがさらに強くなった。

「彼は日本のことが大好きだったからね。日本に抱いていたイメージが、さらによくなったよ」

そして、運命に導かれたかのように、J1昇格を決めていたベルマーレからのオファーが届く。再び海をわたることに迷いはなかった。それでも、平塚の地で待っていた新たな出会いは強烈な印象を与える。

ベルマーレを率いる熱血漢、曹貴裁(チョウ・キジェ)監督が課す練習は質、量ともにハードなことで知られる。2000年にキャリアをスタートさせ、ベテランの域に入ったバイアにとっても新鮮な日々だった。

「試合で勝つための練習だからこそ厳しい。監督には最初に厳しいという印象を抱き、細かい部分にも非常にこだわることがわかった。監督はそれこそ練習前だけでなく、練習後や試合後もいつもクラブハウスにいる。24時間、常にサッカーのことを考えている感じだよね」

■海外からのオファーを断って残留した理由

3バックでプレーした経験はほとんどなかったが、すぐにラインを統率する真ん中のポジションへ順応。1対1での落ち着いた対応、的確なカバーリング、そして正確なフィードで欠かせない存在となった。

迎えた今シーズン。海外クラブから届いたオファーを断り、J2に降格したベルマーレで3年目を迎える道を選んだ。2部リーグでプレーするのは初めての経験だったが、バイアに迷いはなかった。

「自分が心地よくプレーできる場所はここだし、家族も平塚の町をすごく気に入っているからね」

陣容が一気に若返った今シーズン。3バックの右は中盤を本職とする、桐蔭横浜大学から加入して2年目の山根視来(みく)が、左には市立船橋高校出身のルーキー・杉岡大暉が起用されることが多い。

経験が足りない2人をしっかりと支え、山根ならドリブル、杉岡ならば球際の強さと攻撃参加を存分に引き出す。それでいてJ2最少の17失点を誇る最終ラインで、バイアはいぶし銀の存在感を放っている。

「後半戦に入って、前半戦でできなかったところが少しずつ改善されている。特に前線の選手たちが本当によく動いてくれていることが、守備の安定につながっている。攻撃陣と守備陣が一体感をもってプレーし続けていけば、もっといい結果がもたらされると思う」

もっとも、ただ単に若手を後方からサポートしているだけではない。曹監督のもとで育まれてきた「湘南スタイル」でプレーしてきた過程で、新しい自分に出会うことができたとバイアは屈託なく笑う。

「30歳を超えて、さらに走れるようになりました。それもノンストップで」

J2最終節を終えた5日後の11月24日に34歳になる。1年でのJ1復帰を手にして、笑って祝うために。182センチ、85キロの体にテクニック、経験、何よりも崇高な心を搭載しながらバイアは走り続ける。
《藤江直人》

編集部おすすめの記事

page top