レッズ時代から「8」という数字にこだわってきた。ルーキーイヤーの背番号「28」は2シーズン目から「8」に変わり、オランダの名門フェイエノールトでも4シーズン目から「8」番を背負った。
日本代表として出場し、史上初の決勝トーナメント進出を果たした2002年のワールドカップ日韓共催大会でも、「18」番を背負って左ワイドとして全4試合に先発している。
コンサドーレでも、もちろん「8」にこだわった。そのうえで、真っ白な気持ちでスタートしたいという想いを込めて、コンサドーレで過去に誰もつけたことのない「44」番を強く希望した。一の位と十の位を足せば、愛着深い「8」になる。
◆周りがいい意味で安心する
昨シーズン途中にコンサドーレで12年半もプレーし、背番号「8」がシンボルと化していたレジェンド砂川誠がFC岐阜へ期限付き移籍。オフには現役引退が発表された。
必然的に「8」番は空いたが、引き継ぐのではと期待された小野は今シーズンもチーム内で最も大きな番号を背負っている。おそらくは「44」番でまだ何も成し遂げていない、という思いを抱いているのだろう。
練習の前後に入念なケアを施しても、どうしてもけがが連鎖する状況が続く。出場試合数や出場時間が限られても、それでも四方田監督は「点を取りたいときには必要な選手」と全幅の信頼を寄せている。
「苦しいときにボールの預けどころになるし、彼が入ることでタメができる。何よりも、他の選手が真似できないようなパスが出てくる。いろいろな経験をしているので、どんな状況でも動じることなく冷静に判断ができるし、状況に応じていろいろな指示も出せるので、彼がピッチに入ったことで、周りがいい意味で安心するというのはありますね」
◆初戦を勝てなかったことが一番大きい
ちょうど地球の裏側にあたるブラジルでは、4年に一度のスポーツ界最大の祭典が開催されている。23歳以下の若手に3人のオーバーエイジを加えた手倉森ジャパンは、スウェーデンとの最終戦で勝利しながら、残念ながらグループリーグで姿を消してしまった。
振り返ってみれば、12年前の2004年、オリンピック発祥の地アテネで開催された祭典に小野も出場している。出場資格があった2000年のシドニー大会は、前年7月に左ひざ前十字じん帯を断裂した影響もあってコンディションが上がらず、無念の代表落選を余儀なくされていた。
迎えた4年後。A代表でも確固たるポジションを築いていた小野は、オーバーエイジとして山本昌邦監督に率いられるオリンピック代表に招集される。与えられた背番号はもちろん「8」だった。
しかし、パラグアイとの初戦で3‐4と苦杯をなめた日本は、続くイタリアにも2‐3で連敗。この時点でグループリーグ敗退が決定し、ガーナとの最終戦で一矢を報いるのが精いっぱいだった。
短期決戦で重要なウエートを占める初戦を1点差で落とし、攻守のリズムを狂わせてしまった展開は、ナイジェリアに4‐5で屈したリオデジャネイロ大会と酷似している。
パラグアイ戦では2ゴールをあげるなど、オーバーエイジとして存在感を放った小野は、ブラジルで悔しさを味わわされた後輩たち、特にオーバーエイジの3人を静かな口調でねぎらっている。
「短い期間でみんなと合わせなければいけない点で、プレッシャーというものはすごくあったと思う。それでも、オーバーエイジが入ったこととチームが敗退したことは別の問題なので。やっぱり初戦を勝てなかったことが一番大きい。それだけ大きな意味合いがある試合だったし、前半は均衡した展開のなかで、最後は1点差で負けてしまったことが、今回の大会を通して一番痛かったんじゃないかと思います」
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《藤江直人》
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