10月4日は2015年シーズン最後の休日開催、そして斎藤隆の引退試合だった。
■横浜からロサンゼルスへ
斎藤隆は1991年のドラフト会議で大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)から、1位指名を受け入団。同期には田口壮、鈴木一朗(イチロー)、金本知憲、三浦大輔らがいる。
東北福祉大からプロ入りした斎藤には、即戦力ルーキーとしての期待がかかっていた。だが二桁勝利を達成するまでは少し時間がかかり、初めて10勝の大台に乗ったのは1996年だ。1997年に右ヒジの遊離軟骨除去手術を受けたあと、1998年に1軍復帰し13勝5敗1セーブの成績でカムバック賞を受賞。この年チームも日本一に輝く。翌年は自己最多の14勝をマークした。
だが斎藤の成績は2000年代に入ると下降する。クローザーを務めた2001年と2002年は連続して20セーブ以上挙げたが、先発再転向もあった2003年以降になると3年間で11勝16敗と負け越した。
2005年オフに斎藤は夢だったメジャー挑戦に踏み切る。最近の成績や36歳という高齢から、世間の受け止め方は"思い出挑戦"が多かった。斎藤自身も「引退する前に一度でいいからメジャーで投げたい」と周囲を説得しての渡米だった。
2006年2月に斎藤はロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した。
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■思い出作りからメジャー屈指のクローザーへ
スプリングトレーニングで苦戦した斎藤は、開幕をマイナーで迎えることになる。だが4月に故障者の代わりとしてメジャー昇格すると、36歳のルーキーはセットアッパーとして8試合連続無失点など抜群の成績を残した。シーズン途中からクローザーに定着し、最終成績は防御率2.07、6勝2敗24セーブだった。
メジャー2年目の2007年はさらに凄まじかった。開幕からドジャースの守護神としてセーブを挙げ続け、球速も自己最速となる99マイル(約159キロ)を計測。日本で引退直前だった投手のボールに、メジャーの強打者たちが手も足も出ないのは爽快だった。
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一方この復活劇により日本の野球ファンには、「メジャーのマウンドは硬いから球速が出る」という認識も広まった。
確かに日本とメジャーのマウンド、グラウンドの違いは多くの選手や関係者が指摘するところだ。日米両方のマウンドを経験した石井一久は以前、テレビ解説中に「日本のマウンドとアメリカのマウンドは造りが違うので、アメリカから戻って来て慣れないと足首を痛める」と話していたことがある。2015年に日本復帰した広島の黒田博樹が、5月に右足首痛で登録抹消されたことを考えると示唆的だ。
だが斎藤の復活劇に関しては、そうしたマウンドの違い以上に調整法を変えたことが影響しているように思う。
【故郷で現役生活に別れを告げた斎藤隆 続く】