【THE ATHLETE】故郷で現役生活に別れを告げた斎藤隆…長い旅路の果てに原点へ 2ページ目 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE ATHLETE】故郷で現役生活に別れを告げた斎藤隆…長い旅路の果てに原点へ

オピニオン コラム
斎藤隆 参考画像(2012年8月3日)
  • 斎藤隆 参考画像(2012年8月3日)
  • コボスタ宮城
  • 斎藤隆 参考画像(2006年4月15日)
  • 斎藤隆 参考画像(2007年9月8日)
  • 斎藤隆 参考画像(2012年9月26日)
■「投手は走り込み」からの脱却

あまり知られていないことだが斎藤はアマチュア時代、右脚を骨折したことがある。そして完全に治らないまま骨がくっついてしまい、身体は今も左右のバランスが微妙に狂った状態だ。

そのためランニングを中心とした練習メニューでは、脚に大きな負担がかかり故障しやすくなってしまう。右脚をかばうことで左を痛め、下半身を気遣って上体で投げると肩やヒジを故障する悪循環。

横浜時代の晩年から斎藤は右脚に負担の少ない調整法を模索していた。その成果が出始める時期とロサンゼルス移籍が重なったことが、奇跡的な一致で復活劇を演出した。

とはいえ、ケガの影響から完全に脱したわけではない。2007年のスプリングトレーニングでは右太モモを痛め、足を引きずる姿が見られた。当時ドキュメンタリー番組のインタビューを受けた斎藤は、ケガについて「右脚には古傷がある。1度やったところは強くなるけど、その上下がケガしやすくなる。負傷したところが固くなってテンション上がると、その周りを今度は痛める」と語っていた。

斎藤のプロ生活は常に故障との戦いでもあったのだ。メジャー晩年も度重なるケガで身体は悲鳴を上げていた。

それでも2012年オフに楽天イーグルスへ移籍し、生まれ故郷の仙台で日本球界復帰を果たした斎藤は、2013年に中継ぎとして30試合に登板、チーム初の日本一に貢献する。

■長い時間を経て故郷に戻って来た引退試合

楽天入団時の会見で斎藤は、宮城球場(コボスタ)への想いを語っていた。

「私が甲子園を決めたのは、まさにこの場所でした。それから大学時代、内野手からピッチャーに転向して、様々な時間を経てここにつながった最初のスタートは三塁側のブルペンでした」



ピッチャー斎藤隆が誕生した場所。そこで彼は引退試合を迎えた。

九回が始まる前、投手交代が告げられるより先に、スタンドからは斎藤コールが起こった。レフトスタンドの応援席から始まったコールは、球場全体に伝播していく。観客は当日配布された『東北の誇り』タオルを掲げ、ひとりの男の登場を待った。

先頭打者の細川亨に現役最後の3球を投げ終えると、斎藤は目に涙を浮かべ捕手の嶋基宏と抱き合った。降板を予感させるシーンにスタンドから再び、今度は続投を求める斎藤コールが起こる。

しかし2度目はなく、斎藤はマウンドを松井裕樹に譲り渡した。

すべての儀式を終えた斎藤。引退セレモニーでは晴れ晴れとした顔で、「身体は限界です」と話した。傷ついた身体で長い時間、多くの場所を渡り歩いた斎藤の現役生活は、原点となった場所で幕を下ろした。
《岩藤健》

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