【山口和幸の茶輪記】中国・計成のツール・ド・フランス初出場初完走は、日本にとって脅威になる | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【山口和幸の茶輪記】中国・計成のツール・ド・フランス初出場初完走は、日本にとって脅威になる

スポーツ まとめ
ツール・ド・フランス第20ステージの第1走者は、最下位の計成だった
  • ツール・ド・フランス第20ステージの第1走者は、最下位の計成だった
  • 中盤までのステージでメイン集団を引っ張るのは常に計成(2人目)だった
  • 日本の第一人者、新城幸也も負けられない
  • 新城幸也が第一集団に加わって積極的に走る
  • 2014ツール・ド・フランスの山岳で新城幸也はグルペットと呼ばれる完走目的の遅い集団には一度も加わらなかった
  • ノルウェーで唯一大会に出場しているクリツォフはステージ2勝した
  • 【山口和幸の茶輪記】中国・計成のツール・ド・フランス初出場初完走は、日本にとって脅威になる
  • ポーランド選手として初の山岳賞を獲得したマイカ(2番目)
ジャイアント・シマノに所属する計成(ジ・チェン)が中国選手としてツール・ド・フランスに初出場し、そして最下位ながら完走を果たした。終盤はケガに悩まされ、最終日前日の個人タイムトライアルは厳密に言えばタイムアウト、そして最終日は落車で1人だけ遅れてしまったため、シャンゼリゼの周回コースで1周遅れになるという珍事も。それでも規定のタイムを加算されて完走扱いになった。

ただし、なにもせずに完走したわけではない。チームにはドイツのマルセル・キッテルという有力スプリンターがいて、それを勝たせるために献身的なアシストを率先してこなした。平たんステージなどでスタート直後に数選手がアタックして第一集団が形成されると、メイン集団の先頭に計が出て追撃を開始するのだ。

2時間以上にわたってある程度のハイペースで先頭をけん引し続けるのである。こうして逃げ集団をつぶしにかかるので、フランスメディアは「ブレークウェイキラー=逃げの殺し屋」というニックネームで紹介した。実際に逃げがつぶされ、メイン集団のゴール勝負に持ち込んだ4区間でエースのキッテルがステージ優勝している。

101回の歴史を誇るツール・ド・フランスで、それぞれの国はいつ初参加を果たし、区間勝利やマイヨジョーヌを獲得するまでどれくらいの年月を要したのだろうか?

たとえばドイツ。第1回大会から参戦しているが、ツールはこのスポーツ強豪国が制することのできない空白領域だった。ドイツ勢が活躍を始めるのは90年にベルリンの壁が崩壊してから。旧東独勢が参加できるようになり、97年に東独出身のヤン・ウルリッヒが初制覇した。

同様に第1回から参加しているベルギーが総合優勝を勝ち取るまでに要したのは9年。イタリアは20年、スイスは47年になる。ただし大会の黎明期は選手が闇夜にまぎれて列車に乗ったり、フレームが欠損して鍛冶屋で修理したりの時代。ツールの記録は競技として確立された第二次世界大戦以後を見なければならない。

アメリカは1981年、星条旗のナショナルジャージを身にまとったジョナサン・ボイヤーがルノージタンチームで初出場した。84年にはグレッグ・レモンがルノーエルフで初出場し、いきなりの総合3位。85年には念願の区間1勝を挙げ、そして86年にアメリカ勢として初の総合優勝を達成している。

オーストラリアは1914年に2選手を送り込んでいるが、やはり1981年に初出場したフィル・アンダーソンが功労者。第5ステージでマイヨジョーヌを着用し、1日でそれを手放したものの、翌82年には第2ステージで初勝利。再びマイヨジョーヌを着用し、9日間それを守っている。

アンダーソンの活躍でツールの魅力を知ったオーストラリア選手たちが相次いで欧州自転車競技に挑戦を始め、区間勝利やポイント賞では常連となる。2011年にはカデル・エバンスが初の総合優勝をオーストラリアにもたらした。

中国で自転車ロードレースはまったく認知度がなかったが、計の完走は大々的に報じられ、13億人がツール・ド・フランスの魅力を初めて知ってしまったことになる。テニスの全仏オープンで優勝した中国の李娜を超えて注目されていると、人民網も伝えている。

2~3年後、ツール・ド・フランスに複数の中国選手が、あるいは一気に中国チームが参戦し、次第に優勝を争う存在になることも想定される。ツール・ド・フランスを走れる実力者が新城幸也や別府史之しかいない日本は、相当な危機感を持たなければいけない。
《山口和幸》

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