車いすバスケ・土田真由美がリオ五輪予選敗退で見た“世界” | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

車いすバスケ・土田真由美がリオ五輪予選敗退で見た“世界”

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車いすバスケ・土田真由美がリオ五輪予選敗退で見た“世界”
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人生で初めての世界選手権は、ほとんど記憶にない。覚えていることと言ったら、チームメイトに車いすが空回りしたのを笑われたことくらいだ。

記憶はほとんど残っていないが、そのとき強烈に感じたことは確かに覚えている。

“上には上がいる”

車いすバスケットボールプレイヤーとして土田真由美(東京ファイターズ)が本格的に活動を始めてから1年が経った2010年のことだった。


「いずれ歩けなくなる」と医師に言われる



小さい頃からとにかく負けることが嫌いだった。運動会の個人種目は1カ月前から練習するタイプで、夏休みに校庭の隅を走った。

「好きだからやっていただけなんです。自分が好きで楽しくてやっていることを、『努力している』とは言いたくないんです。」

昔から体を動かすことが大好きだった。毎日が体育の授業だったら楽しいのにーーそんな土田の将来の夢はスポーツトレーナーになることだった。



しかし変化は突然に、そしてゆっくりと訪れた。トレーナーを志し体育大学に進学した土田は、2年生のときにサッカー部の見学へ行った。すると突然腰に痛みを感じ、立っていられないほどの激痛に襲われた。すぐに病院へ検査に行くと、医者から信じられない言葉が発せられることになる。

「いずれ歩けなくなる」

生まれつき股関節が悪く、将来的に歩けなくなる可能性がある、と伝えられたとき、「あ、そうなんだ」としか思えなかった。いつ歩けなくなるのかは定かではないが、いつか歩けなくなる。確かに腰は痛むが、そのときは難なく歩くことができた土田には、どうにも現実味が湧かない言葉だった。

だが、次第に体育の授業に参加できなくなり、長時間歩くことも困難となった。できることが徐々に減っていき、「こういうことなんだな…」と医師の言葉の意味を理解し始めた。


体育館で起きた偶然と衝撃



土田が車いすバスケと出会ったのは、まだ障がい者手帳を手にする前のことだった。体育館に行ったある日、練習していた車いすバスケの選手に誘われ、車いすに座ってゴール下からシュートを放ってみた。それまでは、シュートを決めることは簡単なことだと思っていた。しかし、車いすに座って放ったボールはリングにかすることすらなかった。

「そのことが衝撃的でした。なんで届かないの?と、悔しかったです。」

負けず嫌いの土田の脳裏には、このときの記憶が鮮明に残っていた。だからこそ、障がい者手帳を手にしてからの切り替えが早かった。

「落ち込んだ気持ちもありましたが、『車いすバスケがある』と前向きに考えることができました。もし、あのとき体育館で声をかけられていなかったら、障がい者手帳を持った時点で何もかも諦め、マイナスの方向に捉えていたと思います。」

撮影:宮本邦彦


体育館で起きた偶然が、大きなターニングポイントになった。2009年、初めて車いすバスケの日本代表合宿に呼ばれた。当時はとにかく周りの選手たちについていくことに必死だったという。

「緊張して夜も眠れなかったです。自分が目標にしていた夢に向かって前進できた良い機会でした。」

翌2010年は「IWBF世界選手権大会」で初めての国際大会を経験するが、思うようなパフォーマンスは発揮できずに終わった。

「記憶にないくらい何もできなかったので、日の丸のついた代表ユニフォームを着ていて恥ずかしいんじゃないかと思いました。それ以降は、どんなにしんどい練習でも『また日の丸を背負いたい』という思いで、全力でやろうと意識が変わりました。」

同じ日本代表にもすごい選手はいた。しかし、世界にはもっともっと上がいた。1つの転機となったのは、アジア1枠の出場権をかけて戦った2015年のリオデジャネイロパラリンピック予選会だ。結果は3位、ブラジル行きの切符を逃した。

「負けたとき、とにかく『このままじゃだめだ』と感じました。どうにかして変わらなくちゃという思いがありました。」

いろいろ考えて行動し、迷惑をかけ、さまざまな人に支えられた。その中で気付きもあった。 

「自分がシュートを決めてチームが勝てばみんなが喜んでくれる」

車いすバスケは、障がいの重い選手も軽い選手も等しく試合に出場するチャンスを与えるルールがある。障がいレベルの重い選手の順から1.0-4.5の持ち点が定められており、出場選手5人の持ち点の合計を14.0以内におさめなければならない。

持ち点が4点、障がいの軽い土田はそう考えていた。だが、その上で臨んだ予選会で敗北した。

土田自身も「何かを変えなければいけない」と感じ、敗戦後は試行錯誤を繰り返した。

「車いすバスケを始めた当初は、自分が頑張ればチームが勝てると思っていました。自分だけではなく、みんなで頑張ることが大切なんだと感じました。」

自分ではなく、みんなで。意識とともに、プレースタイルにも変化が起きた。

「チームメイトのいいところを引き出せる選手になりたいです。(車いすバスケは5人制で)1+1+1+1+1が5ではなく、5以上になれるようなチームを作れる選手になりたいです」



2016年秋からは、女子選手が男子チームに登録できるようになった。土田も東京ファイターズの男子チームに所属し、日々レベルアップをはかっている。2015年の悔しさをはらすため、3年後の東京パラリンピックに向けても意気込みを見せる。

「まずは合宿に呼ばれ、日本代表の12人に選ばれることを目標にしています。今、私が車いすバスケを続けられているのも、いろんな方々に支えてもらえたおかげです。東京パラリンピックで結果を残すことで、お世話になった方々や、私に車いすバスケを教えてくださった先輩方への恩返しをしたいと思っています。」

ほとんど記憶に残っていない初めての世界選手権からちょうど10年を数える2020年。記憶に残る東京パラリンピックを迎えられるように、土田は今日も車いすとともにバスケットボールを追う。


■土田 真由美(つちだ まゆみ)
1977年生まれ。株式会社シグマクシス所属。車いすバスケットプレイヤーとして、東京ファイターズでプレー。
幼いころからスポーツが好きで、高校卒業後はスポーツトレーナーを志し体育大学に進学。大学2年生の時に突然腰痛に襲われ、その後次第に日常生活にも支障をきたすまでになり、先天性の障がいと診断される。
一般企業に就職し競技を続ける中、2009年の選手登録を機に本格的に競技を開始。同年、日本代表の候補合宿や強化合宿に選出される。

2010年、イギリスで行われた「IWBF世界選手権大会」において自身初となる日本代表に選出される。2013年第24回全日本女子車椅子バスケットボール選手権大会ではチームが優勝、MVPに選ばれる。
2017年2月より東京ファイターズに所属。男子チームの中でその実力を磨いている。
《山本有莉》
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