「ゴールキーパーの川口能活です。ヨシカツと呼んでください。よろしくお願いします」
■新天地、SC相模原へ
23年目を迎えたプロ人生で、移籍を経験するのは5度目となる。横浜マリノスで年間王者獲得に貢献し、イングランドのポーツマス、デンマークのノアシェランと海外でのプレーも経験した。
ジュビロ磐田では史上3人目のJ1通算100試合完封を達成。日本代表としても歴代3位の116キャップを獲得したレジェンドが選んだ新たな戦いの舞台は、発足して3シーズン目となるJ3だった。
契約満了に伴い、2年間プレーしたJ2・FC岐阜から退団することが発表されたのは昨年11月27日。当時の心境は、アビスパ福岡とのシーズン最終戦後に残した短い言葉に凝縮されている。
「このままでは終わりたくない」
FC岐阜での1年目となった2014年シーズンは37試合に出場した川口だったが、一転して昨シーズンはわずか6試合に甘んじている。実は開幕前のキャンプから、右ひざに違和感を覚えていた。
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2006年ワールドカップの川口能活
試合出場にこだわって無理を重ねてきた代償として、違和感は激痛へ変わる。4月11日の東京ヴェルディ戦を最後に戦線離脱。保存療法で完治させる方針を貫いたことで、アビスパ戦で復帰を果たすまで約7カ月半もの時間を要した。
復帰までの軌跡に対して、もちろん後悔はしていない。もしも保存療法ではなく患部にメスを入れていたら、リハビリを含めて、さらに多くの時間が経過していたかもしれない。
それでも、6試合における自身のパフォーマンスには、とてもじゃないが納得できない。大量4ゴールを奪われ、無念の大敗を喫したアビスパ戦後にはこんな言葉を残してもいた。
「チームの力にまったくなれなかった。ふがいないし、悔しさだけが残るシーズンでした」
■必要とされるクラブでプレーしたい
古巣へのエールとともに、FC岐阜のホームページ上で現役を続行する決意をつづってから数日後。相模原から連絡が入った。
オファーはひとつだけだった。というよりも、ほぼ即決だったのでその後のことはわからない。たとえ別のチームから動きがあったしても、川口の決意は変わらなかった。
「すぐに声をかけていただいたので。所属クラブが決まらないという状況をあまり長引かせたくなかったというのもありますし、何よりも相模原の誠意にもこたえたかった。必要とされるクラブでプレーしたい、チャレンジしたいという思いから相模原に決めました」
相模原の創設者にして現在は会長を務め、母校・清水商業高校(現清水桜が丘高校)の2年先輩でもある望月重良氏とは、実は昨年夏に会話をかわしている。
「試合に出ていなかったから気になったんですよ。どうしたのかと聞いたら、ケガをしていたと。あと半年、岐阜で精いっぱい頑張ると言うので、もし何かあればと話して、そのときは終わりました」
後輩とのやり取りをこう振り返る望月会長は、シーズン最終戦で復帰した川口のパフォーマンスなどもすべてチェック。十分に戦力になるという判断のもと、岐阜を退団した直後に電光石火で連絡を入れた経緯を「お互いにとってタイミングがよかった」とこう続ける。
「現役を続けたいと思うのは、まだまだ自信のある表れだと思うんですよ。ヨシカツにとっても昨シーズンは不本意だったはずだし、もし引退するにしてももうひと花咲かせてからと、選手なら誰もが望んでいるはずなので。
フィールドプレーヤーで40歳だと厳しいけど、ゴールキーパーならば年齢どうこうはない。経験の豊富な選手なので、コンディションさえ戻ってくれば何の問題もありませんし、心配もしていません。ウチがこれからさらに発展していく意味でも、彼の経験といったものもクラブに落としていってもらいたいんです」
【川口能活の燃え尽きぬ炎 続く】