かつては野球界の中だけで話題が進んでいき、多くの場合ファンは翌日のスポーツ新聞などで「どの球団が誰を指名したのか」ということを知った。そして初めて、その選手がどんな選手なのだろうかと興味を抱いていくことが多かった。
もちろん高校野球や大学野球、都市対抗をはじめとした社会人野球は、それぞれに人気があり過熱していた。しかし、ドラフトとはあまり結びつけられて考えられていなかった。また、歴史的にもプロ野球界とアマチュア野球界とが、お互いに距離を置いていかざるを得ない事件も起きていたこともあったからでもある。
■昭和40年に始まったドラフト会議
毎年のように、この時期になるとドラフト会議の歴史の始まりなどが語られるのだが、第1回は1965(昭和40)年である。この制度を始めた最大の理由は各球団の選手強化費を抑えるために、契約金を高騰させない、つまり有望選手獲得に対して札束を積んで勧誘することをやめることだ。
また、一部の財力のあるチームに有望選手が偏っていくことを防止して、戦力が均等になるようにする思惑もあった。そのヒントとして、米国のプロフットボールで行われていた前年の下位チームから、優先的に選手を獲得していくウェーバー方式があった。
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もちろん巨人や阪神など資金と人気があり、ある程度自由に選手を獲得できるチームは当初反対していたのだが、そこは「プロ野球全体の発展のため」という大義名分が勝ち、最終的には12球団合意という形で開催に至った。時を同じくして、巨人の9連覇が始まる。その1年目にドラフトが開催されているという事実が興味深い。
というのも、その後1974年に中日が10連覇を阻止するのだが、その年に巨人は看板スター長嶋茂雄が引退。もちろん長嶋はドラフト以前の選手であり、入団の経緯として当初は南海にほぼ決まりかけていたものを、逆転で巨人入団となった。その翌年には王貞治が早稲田実業で2年生の春に甲子園優勝投手となった。打者としても素質を高く評価されていた王が、決まりかけていた阪神入団を最終的には巨人に落ち着かせたこともあった。
■ドラフトによる戦力の均等化
巨人の9連覇は、その長嶋と王が中心戦力になっていたことは言うまでもない。さらに「赤い手袋」で人気を博して、盗塁王に何度も輝いていた柴田勲も法政二高時代から甲子園のスター選手で、やはりドラフト以前の入団選手である。そんな中で、ドラフト初年度で巨人が1位指名したのが甲府商業の堀内恒夫。新人の年に初登板から13連勝するなど大活躍した。
つまり長嶋と王という看板スター、堀内の活躍もあり巨人の前人未到の9連覇は成り立った。しかし、その間にドラフトが実施され続けたことで、戦力がある程度均等化してきたことも確かだ。それが、巨人がドラフトで指名しなかった明治大の星野仙一が中日でエースとなり「打倒巨人」の旗頭となって活躍したり、巨人が熱望した法政大の田淵幸一が阪神に入団したこと、さらには同じ法政大の山本浩二が広島に指名され、その後の広島黄金期の核となっていったということである。
【ドラフト会議…プロとアマチュアをつなぐ野球界の大事な架け橋 続く】