■「1対1の攻防」に強さ発揮
状況が逆転したのは、国内組だけで臨んだ8月の東アジアカップ。全3試合に先発フル出場した山口は武器でもある球際の強さ、相手へのアプローチの速さ、底知れぬスタミナをいかんなく発揮した。
実は東アジアカップを前にして、ハリルホジッチ監督は新たなキーワードを掲げ始めた。
「デュエル」
フランス語で言う「1対1の攻防」を誰よりも体現した山口は、一気に指揮官の信頼を勝ち取る。カンボジア、アフガニスタン両代表に連勝した、9月のワールドカップ・アジア2次予選でもともに先発フル出場。必要不可欠な戦力となった。
セレッソが同じくJ2を戦った2002年シーズン。初代レジェンドとしていまもサポーターから愛されている森島寛晃(現セレッソ大阪アンバサダー)は、フィリップ・トルシエ監督に率いられる日本代表での戦いと両立させている。
リーグ戦欠場は7試合。累積警告による出場停止は1試合で、残りはワールドカップ日韓共催大会前に行われた国際親善試合や海外遠征に森島が招集されたことに伴うものだ。
■2000年から2001年の記憶、パイオニアとなった森島
2000年シーズンのファーストステージで、セレッソは優勝した横浜F・マリノスと熾烈なデッドヒートを展開。初タイトル獲得への期待が高まった2001年シーズンはしかし、一転して大苦戦を強いられる。
青写真を狂わせたのは、オーバートレーニング症候群で出遅れ、強行出場した開幕戦で左ひざのじん帯を痛めた森島の戦線離脱。結局、2000年シーズンにチームトップタイの15ゴールをあげた森島は3ゴールに終わり、セレッソもJ2へ降格した。
当時の心境を、森島から聞いたことがある。
「悔しさというよりも、自分が何もできなかったという思いのほうが強かった。なので、僕自身は端からチームを出るという気持ちはなかった」
J2のチームに所属していて、果たして日本代表に招集されるのか。前例はゼロだったが、それでも森島に迷いはなかった。
果たして、ワールドカップ代表に選出され、迎えたチュニジア代表とのグループリーグ第3戦。セレッソのホームの長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)で、0対0の均衡を破るゴールを決めたのは森島だった。
日本代表、そしてセレッソで背負い続けた「8」番はレジェンドの象徴になった。柿谷の移籍後は、ふさわしい選手がいないという理由で空き番になっている。
■森島と山口、J2から代表の軌跡
攻撃的MFだった森島と山口は背番号だけでなく。ポジションやピッチ上における役割などのすべてがが異なる。
それでも、代役の利かない存在であること、何よりもJ2を戦いながら日本代表でも居場所を築いたことで、両雄の軌跡は鮮やかに一致する。
2002年シーズンの森島はキャプテンを務め、獅子奮迅の活躍ぶりでJ1復帰をも成就させている。13年もの時空を超えて、新たなレジェンドを拝命するために。山口に求められる仕事を、あらためて説明する必要はないだろう。
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《藤江直人》
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