車いすテニス・齋田悟司…パラ五輪への思い、障がい者スポーツを取り巻く環境の変化を語る | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

車いすテニス・齋田悟司…パラ五輪への思い、障がい者スポーツを取り巻く環境の変化を語る

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車いすテニス・齋田悟司…パラ五輪への思い、障がい者スポーツを取り巻く環境の変化を語る
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  • 写真提供:SIGMAXYZ
史上最大規模となったリオパラリンピック。日本は金メダルこそ取れなかったが、合計24個のメダルを獲得し、前回大会の結果を大きく上回った。

そこには6大会連続でパラリンピックに出場し、通算3つ目のメダルを手にした車いすテニスの齋田悟司がいた。44歳という年齢を感じさせないプレーで勝利を積み上げ、ダブルスで見事銅メダルを獲得した。

どうしたらここまで長く活躍できるのか、これまでどのような経験をしてきたのか、競技自体が無名であった時代から車いすテニス界を切り拓いてきた齋田悟司に話を聞いた。

思春期に襲った受け入れがたい現実


外遊びが好きで活発な少年だったという齋田は、小学4年生の時に地元の少年野球チームに入団する。当時プロ野球界を席巻していた王貞治に憧れを抱き、将来は自ずとプロ野球選手を志していた。

しかし、齋田が小学校6年生の2月、もうすぐ卒業というところで左足にどこか違和感を覚え始めた。少年野球ですでに何度か怪我を経験していた齋田は「一週間もすれば治るだろう」、と深刻に捉えてはいなかった。だが、一ヶ月経っても怪我が治らないということで、精密検査のため大学病院へ。長期間入院しなければならないことを告げられ、「ただごとではないな」と、ようやくそこで初めて事の重大さを感じた。そして、担当医から診断された病名は「骨肉腫」。続けて「足を切断する手術をしなければならない」と告げられた。



当時、小学校を卒業して中学に入学したばかり。齋田には到底受け入れがたい現実で、プロ野球選手になるという夢を断たれた悔しさ、そしてなにより、
「ちゃんとした仕事に就けるのか」という将来への不安に包まれた。

なんとか無事手術を終えて、普通の中学校へ通うことになる。しかし、当たり前のように周りの友達が体を動かしている姿を目の当たりにし「なんで自分だけできないんだ」そう思ったこともあった。

車いすテニスを始めることになった、意外なきっかけ


そんな中、齋田はあるスポーツと出会う。それは、車いすバスケだった。

体を動かすことが大好きだった齋田は、車いすバスケに没頭。チーム内には年上が多く、同じくらいの障がいの人や、それ以上に重い障がいを抱えるチームメイトもいる。そんな先輩たちはみんな仕事を持っているし、色々なアドバイスをもらえる。スポーツをしながら、心の不安も取り除いてくれるということもあって車いすバスケにどんどん熱中していった。

しかし、ここにまた転機が訪れる。

当時まだ日本では無名だった車いすテニスの講習会に、車いすバスケのチームメイトとともに参加。そしてなんと、その面白さを知った車いすバスケのチームメイトみんなで、車いすテニスに転向することに。齋田個人としては車いすバスケを続けたい気持ちもあったが、チームメイトがみんな車いすテニスに転向し、チームがなくなってしまったことによって自身も車いすテニスを始める。

「バスケチームがあればそのまま続けていたとは思います。(バスケチームがなくなったのが)良かったのか悪かったのか(笑)」



もともと野球をやっていた齋田は、車いすテニスの「太陽の下で自然を感じながら汗をかける」ということに喜びとやりがいを感じ、徐々にその情熱を傾けていった。

アマチュアからプロへ


車いすテニスを始めてから約10年、齋田はみるみる力をつけていき、ついには1996年アトランタパラリンピックの日本代表選手に選出された。

そして、このアトランタ大会がまた人生の大きな転換点となる。

もともとアトランタ大会は日本代表に選ばれて出場すること自体が目標だった。1回戦には勝利したが、2回戦の相手は当時ナンバーワンと言われていたデビット・ホール。1回戦を勝利した勢いのまま「そこそこやれるんじゃないか」と思い試合に臨んだものの大敗を喫した。

「普段見ている日本選手と、パラリンピックで見る海外選手とでは発揮する力のレベルが全く違います。もっと世界に挑戦していきたい。結果を残していきたい。」

デビッド・ホールとの敗戦がきっかけでそう感じたという。同時に、プロになることを意識した瞬間だった。

とはいえ、当時齋田は公務員。職場も齋田がテニスと仕事を両立するため協力してくれていたが、プロになれば練習時間が増える反面、収入面は自らのパフォーマンス次第になる。決心のつかぬまま悩んでいたところに背中を押してくれたのが、今も練習しているテニスクラブの理事長の『生計は車椅子メーカーがサポートしてくれるし、練習場所は私達が提供する。年齢的に若く、海外選手にも劣らず、体格的にも恵まれているのはお前しかいない。』という言葉だった。

その後、より良い環境で車いすテニスに集中するために千葉県へ移住。トレーナーらと意見交換を行い、「翌年のシドニーで結果を求めるのではなく、5年後のアテネ大会に照準を合わせた5年計画のトレーニングをしよう」と始動した。そして、当時大学生ながらも国内にその名を轟かせていた国枝慎吾選手とダブルスを組み、見事金メダルを獲得。「アテネに向けた5年計画のトレーニング」、その戦略通りに結果を残すことができた。

そして齋田は、アテネ以降の2008年北京、2016年リオでも見事メダルを獲得している 。

写真提供:SIGMAXYZ


「自分の中で最大の目標は常にパラリンピックです。そして、他の選手も当然パラリンピックで結果を残すことを目標にしています。(パラリンピック開催期間の)ほんの10日間くらいのために4年間準備してきて、結果を残せた時の達成感は何事にも代えがたいものです。」

これが、45歳になった今でも活躍し続けられる大きなモチベーションであると語ってくれた。

長く第一線で活躍してきて感じること


初めて出場した1996年のアトランタから2016年のリオまで、6大会連続でパラリンピックに出場し、3つのメダルを獲得。プレイヤーとしての活躍のみならず、障がい者スポーツの普及についても考えている。

「競技がメジャーになっていくためにはスター選手が必要です。テニスだったら錦織圭選手のおかげで盛り上がったように、車いすテニスだと国枝選手が世界一になったことで盛り上げてくれました。」

実際に齋田自身も結果を残してメディアに取り上げられるようになってから、街で声をかけられることが増え、車いすテニスがどんなものなのか知ってもらえるようになった。今後は若手の育成にも力を入れながら車いすテニスを盛り上げていきたいと考えている。

また、障がい者がスポーツに出会う”きっかけ”作りの重要性も感じている。

「自分の場合はたまたま車いすテニスの団体が講習会に来てくれたことで競技を始めるきっかけを得られましたが、誰もがそういった“きっかけ”に出会えるわけではないのが現状です。より多くの人がパラスポーツを体験できる場をつくることで、障がいがあってもスポーツを楽しめる社会づくりに貢献していきたいです。」

「車いすテニスに出会ったことで多くの人に出会い人生を豊かにすることができました。」と振り返る齋田。今後は選手としてプレーすることはもちろん、その楽しさを伝えることで、スポーツの活性化を目指すと話す。車いすテニスのパイオニアとして齋田のチャレンジは続く。

■齋田悟司(さいだ さとし)
1972年生まれ、三重県出身。
12歳の時に骨肉腫により左下肢を切断、車いす生活に。1996年のアトランタ大会から6大会連続でパラリンピックに出場。2004年のアテネパラリンピックでは国枝慎吾選手と組み男子ダブルスで金メダル、2008年の北京パラリンピックでは男子ダブルスで銅メダルを獲得した。
2003年には国際テニス連盟(ITF)選出の「世界車いすテニスプレーヤー賞」を日本人選手として初受賞するなど、日本を代表するトッププレーヤー。
2016年、自身通算6回目のパラリンピック出場となったリオデジャネイロパラリンピックにて、国枝慎吾選手と組み男子ダブルスにて銅メダルを獲得した。
《北川雄太》
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