思い出しただけで、いまも赤面してしまう。26年間の人生を必死にさかのぼってみても、人目をはばかることなく号泣した記憶が酒井高徳にはない。たった一度だけ、2017年5月20日を除いては。
「泣くほど嬉しかったのは、初めてかもしれないですね。嬉しいだろうなと思っていたし、一方で早く終わりたいとも思っていたけど、それでも泣くとは思いませんでした」
ホームのフォルクスパルク・シュタディオンに、ヴォルフスブルクを迎えたブンデスリーガ最終節。開幕から低迷を続けてきたハンブルガーSVは、勝てば1部残留を果たせる状況でキックオフを迎えた。
もっとも、試合を動かしたのは同じく残留がかかるヴォルフスブルク。前半23分に先制点を許し、直後にイエローカードまでもらった酒井は、心のなかで「マジかよ」と呟いていた。
前半のうちに同点に追いつくも、その後は一進一退の状況が続く。引き分けに終われば、その時点で16位が確定。ブンデスリーガ2部の3位チームとの入れ替え戦に臨まなければならない。
時間の経過とともに、酒井が「マジかよ」と呟く回数が増える。迎えた後半43分。FWルカ・ヴァルトシュミットが劇的なゴールを決める。起点となったのは、左サイドバックの酒井が放ったロングパスだった。
数分後に鳴り響いたホイッスルとともに、長く苦しかった戦いが大団円を迎える。ハンブルガーSVに関わるすべての人々が狂喜乱舞するなかで、おそらくただ一人、酒井だけが涙腺を決壊させていた。
「いろいろな感情があったなかで、勝手に、ごくごく自然にあふれ出てきた感じですね。不安というか、絶対に残留できると自信をもっている自分に対する、半信半疑な気持ちが実はありました。シチュエーションと結果にギャップがあり続けると、どうしても信じ切れない部分が出てきてしまうので」

土壇場で勝利したヴォルフスブルク戦
(c) Getty Images
■ブンデスリーガ史上で初の大役拝命
昨年8月下旬に開幕した昨シーズンのブンデスリーガで、ハンブルガーSVの初白星は12月4日のSVダルムシュタットとの第13節まで待たなければいけなかった。
第5節のバイエルン・ミュンヘン戦で4連敗を喫すると、一夜明けた9月25日にチームはブルーノ・ラッバディア監督を解任する荒療治に打ってでる。
しかし、マークス・ギスドル新監督のもとでも状態は好転しない。迎えた11月17日。指揮官はチームキャプテンを、スイス代表DFヨハン・ジュルーから酒井に変えた。
酒井はこのとき、日本で行われたオマーン代表との国際親善試合、サウジアラビア代表とのワールドカップ・アジア最終予選を戦い終えて、ドイツに戻ってきたばかりだった。
奥寺康彦が1.FCケルンへ移籍したのが1977年10月。ブンデスリーガにおける日本人選手の挑戦が、ちょうど40年目の節目を迎えたなかで、日本人選手がチームキャプテンを担った前例はない。
「下位に沈んでいると非常に自信のもちにくいシチュエーションになりがちですけど、それでもとにかくポジティブに考えるようにしました。それが空元気的なポジティブではなくて、チーム全体として自信をもってプレーしようという意気込みのなかで、自分自身も心のなかで常に言い聞かせていました。
そうすることで、ある程度安定したパフォーマンスができると自分のなかでもつかめたので。悪いときこそ自信をもって、最後の最後まであきらめることなくプレーしなきゃいけない。簡単に言えることですけど、実践するにはなかなか難しいということにもあらためて気がつきましたね」
シーズン途中から予想もしなかった肩書も加わったなかで、酒井は累積警告で出場停止だった1試合を除く33試合に出場。8人の日本人選手が所属した昨シーズンの1部で、最長となる2823分間プレーした。

キャプテンとしてチームを鼓舞
(c) Getty Images
■頭をもたげたさまざまなプレッシャー
大役拝命を意気に感じる一方で、新たなプレッシャーが頭をもたげてきた。日本人の父とドイツ人の母の間に米ニューヨークで生まれ、新潟県で育った酒井はいまもドイツ語を上手く話せない。
チームがどん底にあえぐなかで、共通の言葉をもたない者同士がどのようにして意思の疎通を図り、一体感を生み出し、奇跡の残留へ向けてはいあがっていけばいいのか。
考えれば考えるほど、十字架に押し潰されそうになる。さらにつけ加えれば、ブンデスリーガが創設された1963年に参戦した16チームのうち、ハンブルガーSVは唯一、2部に降格したことがない。
「初めて2部に降格したときのキャプテンが日本人選手だった、と言われ続けるのは僕のプライドが絶対に許せなかった。日本人という名前を、汚すこともできないと」
ギスドル新監督は酒井の献身的な姿勢、限界を超えても走るハードワークに、チームを浮上させるきっかけを託した。背中でけん引する分には、言葉はいらない。酒井は覚悟を決めた。
「エゴじゃないですけど、自分は常によくなきゃいけない、周りが悪くても自分だけはよくなきゃいけないとずっと言い聞かせていた。たとえ上手くいかなくても、最低限いいプレーを味方に見せて、そこから勢いづけられればと」
やや上向いた状態で年内の戦いを終えたが、ウインターブレーク明けでいきなり連敗スタート。2月25日のバイエルン・ミュンヘン戦では0‐8の大差で粉砕された。
4月16日のヴェルダー・ブレーメン戦からは3連敗を含めて、5試合も白星から遠ざかった。それでも、公の場で思い悩む姿は見せられない。余計に苦しんだからこそ、笑顔で振り返ることができる。

大きなものを背負い、苦しんだ
(c) Getty Images
「残留を決めた後に、家族から『辛かった日々も知っているよ。最後までよく頑張ったね』と言われてまた号泣ですよ。第三者の目で自分を見ても、辛かったんだろうなと思いますよね」
■修羅場を乗り越えて成長したメンタル
首脳陣からは「よくぞあの状況で、キャプテンを引き継いでくれた」と笑顔で抱きしめられた。再び涙腺が緩んだ。人生で初めてといっていい修羅場をくぐり抜けたいま、明らかに変わった自分に気がつく。
「昨シーズンのようなチーム状態に陥ってしまったら、ファンやサポーターの方々も応援しながら『とりあえず誰でもいいからチームを救ってくれ』という思いを抱いていたはずなので。それをなし遂げられたのはよかったかなと。みんなにとっては、残留は一番大きなことなので。
できれば残留争いはしたくない、というのが本音だけど、どんなに辛い精神状態でも自分のパフォーマンスをなるべく下げずに、プレーし続けることができた。メンタル面で成長できたかな、というのが昨シーズンの一番の収穫となるんじゃないかと」
5月23日に帰国した酒井はつかの間のオフをへて、5月28日から千葉県内で行われている、シーズンを戦い終えたヨーロッパ組だけを対象とした日本代表合宿に参加している。

日本代表での存在感も増す
(c) Getty Images
もともとは明るい性格だが、追い求めてきた残留という結果とともに、ハンブルガーSVでの辛く、苦しい日々から解放されたいま、自然とムードメーカー的な役割を担うほどはつらつとしている。
「家族とすごしたりして、自分なりにリフレッシュしてきました。大事なのはけがをせずに、全員がそろうまで練習すること。コンディション作りも大事ですけど、あまり張り切り過ぎず、かといって気を抜きすぎず、いい感じでやっていきたい」
左右のサイドバックだけでなく、ハンブルガーSVでもプレーしたボランチとしてもスタンバイする。照準を定めるのは、テヘランで13日に行われるイラク代表とのワールドカップ・アジア最終予選。勝てば来年のロシア大会出場へ大手がかかる大一番を、存在感を増した酒井は自然体で待つ。