【THE REAL】ベテラン駒野友一を輝かせる匠の技…愛着深い「3番」をアビスパ福岡で初めて背負って | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE REAL】ベテラン駒野友一を輝かせる匠の技…愛着深い「3番」をアビスパ福岡で初めて背負って

オピニオン コラム
駒野友一 参考画像
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■劣勢の流れを一変させた直接フリーキック

焦らす。とにかく焦らす。キックフェイントも入れて揺さぶる。それも、一度ではなく二度も。ゴールの後方に陣取っていた、湘南ベルマーレのサポーターからすかさずブーイングの標的にされた。

それでも、アビスパ福岡の最年長、35歳のDF駒野友一はまったく動じない。降り注いでくるブーイングの嵐を、むしろ心地よく感じながら、右足を振り抜くベストのタイミングを待ち続けた。

「それ(ブーイング)は別に気にならなかったですね」

敵地のShonan BMWスタジアム平塚に乗り込んだ17日のJ2第14節。両チームともに無得点で迎えた前半アディショナルタイムに、アビスパが直接フリーキックのチャンスを獲得する。

ゴールまでの距離は約25メートル。ボールをセットする駒野のそばにいたMFジウシーニョが、しばらくしてゴール前へとポジションを変えていく。このとき、駒野の頭にひらめくものがあった。

「普段の練習ではゴール前に入っていかないんですけど、今日はなぜか、という感じでした。でも、あの位置から入っていくと、フリーになりますよね」

セットプレーの際はマンツーマンでマークを決める。ベルマーレの選手たちも相手をつかまえていたが、だからこそ突然割り込むように入ってくるジウシーニョへの対応が曖昧になる。

その瞬間を見計らって、駒野は緩やかなカーブ回転がかかったボールを放り込む。身長168センチのジウシーニョが飛び出してきたGK秋元陽太の目の前に走り込み、ジャンプ一番、頭をヒットさせる。

前半の45分間を攻守両面でベルマーレに支配され、波状攻撃を浴び続けたアビスパが最初のチャンスでネットを揺らした。相手を首位から引きずりおろす勝利を導く、貴重な先制点に普段は朴訥にしてシャイな駒野も思わず胸を張った。

「相手のシステムがいままと違ったことで前半はドタバタしてしまい、何をしたらいいかわからない状態だったけど、あの1点が自分たちにとってすごく大きかったし、相手にはダメージを与えたと思う」

■日本代表で愛着の深い「3番」を背負って

昨夏にFC東京から期限付き移籍で加入し、オフには完全移籍に切り替えて迎えたプロ18年目の2017シーズン。日本代表で長く背負ってきた、愛着の深い「3番」をクラブでは初めてつけている。

昨シーズンまで「3番」をつけていたDF阿部巧が、このオフにザスパクサツ群馬へ完全移籍。空き番となったことを受けて、完全移籍に切り替える際の交渉で「24番」からの変更をフロントに希望した。

「これまでサンフレッチェ広島やジュビロ磐田では『5番』をつけていましたけど、ここではサネ(實藤友紀)がつけている。ならばと、代表でつけていた『3番』が空いていたので変えました。途中から加わった昨シーズンは『24番』でしたけど、自分のなかでちょっと親密さというものがなかったので」

日本代表でデビューを果たしたのは、いまから12年も前の2005年8月。ジーコジャパンが臨んだ東アジアカップの中国戦で、24歳になったばかりの駒野は「3‐5‐2システム」の右ワイドで先発フル出場した。

以来、左右のワイド及びサイドバックでプレーできる貴重な存在として、歴代の代表監督から重用される。2006年のドイツ、2010年の南アフリカの両ワールドカップにも「3番」を背負ってピッチに立った。

特に右サイドバックとして全4試合にフル出場した南アフリカでの戦いは、いまも記憶に刻まれているはずだ。大会前の悲観的な下馬評を覆して、岡田武史監督に率いられたチームはグループリーグを突破する。

迎えた決勝トーナメント1回戦。パラグアイ代表との死闘は延長戦を含めた120分間を終えても決着がつかず、運命のPK戦へと突入。後蹴りの日本の3番手を務めた駒野の一撃は、無情にもバーを直撃する。

右足を振り抜くも…
(c) Getty Images


先蹴りのパラグアイ代表が5人全員を成功させた瞬間、日本代表のベスト8進出の夢は砕け散った。PKを外した記憶がない、と自負していた駒野は敗退の責任を一身に背負うかのように号泣した。

PK戦の末に敗れて号泣
(c) Getty Images


■本田圭佑から突然かかってきた電話の内容

生きるか、死ぬかの状況で巡ってきたPKに臨んだときの心境を、後に本人に聞いたことがある。駒野は日本を勝利に導くために、数秒間のうちに虚々実々の駆け引きを繰り広げていた。

「相手ゴールキーパーが、向かって左側に飛んだことはわかっていたので」

緊張と興奮が交錯する刹那で駒野は相手の動きを冷静に見極め、あえてゴールキーパーの上側をぶち抜く弾道を選択した。同じPKを決めるにしても、そのほうがパラグアイに心理的なショックを与えられる。

もっとも、インパクトの瞬間にわずかながら力が入ってしまったのか。ボールは数センチ単位で上にずれてしまう。一時はファンやサポーターから戦犯扱いされた時期もあったが、駒野は悔しさをその後のバネに変えている。

「もちろん忘れたことはないし、あれがあるからこそ立ち直れたと思っています」

イタリア人のアルベルト・ザッケローニ監督のもとでも、駒野はコンスタントに出場機会を得る。2011年10月のタジキスタン代表とのワールドカップ・アジア3次予選では、65試合目にして初ゴールも決めた。

ほぼすべてが「3番」を背負ってのプレーだけに、簡単には手放せない。2012年5月。右ひざ半月板の損傷による長期離脱から復帰する、FW本田圭佑(当時CSKAモスクワ)から突然電話がかかってきた。

復帰を契機として、本田はそれまでの「18番」からの変更を希望。攻撃系の選手がつけるイメージの少ない「3番」か「4番」を候補にあげて、まず駒野に連絡を入れてきた。

「余談を言えば『1番』はどうかとも思ったけど、登録上、厳しいんちゃうかと思ってね。それで最初はコマちゃん(駒野)に話したんだけど、よほどのこだわりがあるみたいで。譲ってもらわへんって聞いたら『無理』って軽く断られて。オレもケンカしてまで『3番』を獲りたかったわけじゃないから」

最終的には当時「4番」をつけていたDF栗原勇蔵(横浜F・マリノス)が快諾。以降、本田は「4番」を自分の色に染めていくことになる。

日本代表で長く3番を背負った
(c) Getty Images


■アビスパの右サイドを活性化させる匠の技

本田からの相談を断った理由を、駒野は「コロコロと背番号を変えるのもあれなので」と苦笑いしながら振り返る。あれから5年がたったいま、アビスパの「3番」にいぶし銀の輝きを添えている。

「映像などを見ていても、自分が『3番』をつけているのは何かしっくりきますよね。もちろん、プレーしているときは、そんなことは全然気にならないですけど」

ベルマーレ戦の後半13分には、右タッチライン際でセカンドボールを確実に収めて、前方のジウシーニョにパス。キャプテンのMF三門雄大の豪快なミドルシュートによる追加点をお膳立てした。

圧巻は42分。ゴール前で同じ1981年生まれのMF山瀬功治がボールをキープしている間に右サイドをスルスルと駆け上がり、ワンタッチで絶妙のクロスを供給。MF城後寿のヘディングによる3点目を導いた。

「残り時間もちょっとだったので、サイドで時間稼ぎをしようかと思いましたけど、中の人数もそろっていたので。あれが1点差だったら、もちろん行きませんでした」

セットプレーとサイド攻撃。アビスパ得意の形から、ベテランの貫禄を見せつける2つのアシストをマークし、アビスパを2位に浮上させた駒野に、元日本代表DFの井原正巳監督も賛辞を惜しまない。

「皆さんもご存じの通り経験豊富ですし、ワールドカップにも出ている選手。いまでもトップレベルにあるクオリティーを、今日も存分に発揮してくれた。年齢的にも中3日のゲームがきついなかで、平均年齢が6歳くらい若い相手に、本当にいい仕事をしてくれたと思う」

長いサッカー人生を振り返ったとき、いつしか「2つの選択肢があれば、より困難を伴うほうに挑む」ことを繰り返してきたことに気がついた。ワールドカップでのあのPKも、難易度の高いコースをあえて狙っていた。

36歳を迎えるシーズンで、42試合の長丁場を戦うJ2に挑んだのも然り。「連戦はきついけど、試合に出続ければ充実するし、勝つことでさらに充実するので」。1年でのJ1復帰へ、円熟味を増した存在感をアビスパの右サイドに与えていく。
《藤江直人》

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