日本サッカー界でいま、最も旬で危険な男が目の前にいる。自分のパフォーマンスがチームの勝敗に直結すると考えただけで、アルビレックス新潟のDF矢野貴章のアドレナリンも自然と増してきた。
「彼は得点も取れるし、決定的なパスも出せる。自分が抑えることがポイントかな、と思っていたので」
4月には33歳になるベテランをキックオフ前から高ぶらせていた「彼」とは、横浜F・マリノスの齋藤学。今シーズンから「10番」とキャプテンを中村俊輔(ジュビロ磐田)から受け継いだ26歳は、開幕したばかりのJ1で群を抜く存在感を放っていた。
ポジションは左ウイング。タッチラインを背にした状態でボールを受けて、十八番の高速ドリブルで相手ゴール前へ切り込んでいく。距離を詰めすぎるとスピードで置き去りにされ、逆に間合いを空けすぎるとピンポイントのスルーパスを出される。
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横浜F・マリノスの齋藤学
(c) Getty Images
浦和レッズに3‐2で逆転勝利を収めた開幕戦、北海道コンサドーレ札幌を3‐0で一蹴した第2節の2試合で、齋藤は4アシストをマーク。右ふくらはぎに違和感を覚えて欠場した鹿島アントラーズとの前節は、一転して0‐1で初黒星を喫している。
今回のワールドカップ・アジア最終予選には招集されなかったものの、局面を個人で打開できる数少ない選手の一人として、日本代表を率いるヴァイッド・ハリルホジッチ監督も熱い視線を送る。169センチ、68キロの小柄なドリブラーは、マリノスの浮沈をも左右する大黒柱と化していた。
齋藤にかき回されれば負ける。逆に止めれば勝機を見出せる。敵地・日産スタジアムへ乗り込んだ18日の第4節。ポジション的にマッチアップする右サイドバックとして先発した矢野は、齋藤封じへのキーワードとして「距離感」を掲げていた。
「自由にドリブルをさせたら脅威というか本当に怖い選手なので、スピードに乗らせずに、フリーでドリブルをさせないポジションを取り続けました」
■ピッチで繰り広げられた虚々実々の駆け引き
昨シーズンまでも名古屋グランパスの右サイドバックとして、幾度となく齋藤と対峙している。背番号が変わり、新たな役割も加わったことで特にメンタル面で成長を遂げた今シーズンにおいても、スピードの部分では齋藤に負けていない、という自負があった。
「同じタイミングで走り出していくなら負けない、という自信があるので。そういう感じもあっての、ポジションの取り方をしていました」
187センチ、78キロの恵まれたボディに、パワー、スタミナ、何よりも速さを同居させている矢野の存在が常に視界に入ってきたからか。齋藤が初めて決定的な仕事をしたのは、前半36分まで待たなければならなかった。
自陣で味方が奪ったボールをハーフウェイライン付近で受け、そのままドリブルで疾走。ペナルティーエリアのやや外側から放ったシュートは、GK大谷幸輝がファインセーブで止めてくれた。
このときはチーム全体が前がかりになっていたこともあって、カウンターを許してしまった。ただ、齋藤が得意とする、左サイドに開いてから繰り出される変幻自在な攻撃は不発に終わらせることができた。
強いてあげれば後半43分。左サイドからゴール前にまでドリブルで侵入されたシーンか。このときは矢野がまず飛び込んだが、あっさりとかわされてペナルティーエリア内への侵入を許している。
「彼は本当に上手くて、危ないというか嫌だなというシーンが何回かありましたけど、決定的な仕事はさせなかったのかなと。マサル(加藤大)も頑張ってプレスバックしてくれましたし、センターバックの選手もカバーしてくれていたので、僕自身も思い切ってチャレンジできました。
足元だけを狙いに行ってしまうと、僕の背後を狙ってくる上手さもあるし…何て言うんですかね、足元を狙うような姿勢を見せておいて実は裏もケアしているよ、という形というか、そういうポジショニングの駆け引きは意識してやりましたね」
■チームの窮地で訪れたターニングポイント
静岡県の浜名高校から柏レイソル、そしてアルビレックスと歩んだサッカー人生で、長身フォワードとして期待されてきた。2010年のワールドカップ南アフリカ大会には、アルビレックス在籍選手として初めてメンバー入りを果たしている。
もっとも、当時の岡田武史監督は矢野のサイズとスタミナ、そして労を惜しむことなく相手を追い回す献身性を高く評価。リードしているゲームを締めるクローザーとして白羽の矢を立てた。
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日本代表で躍動
(c) Getty Images
南アフリカの地でピッチに立ったのは、カメルーン代表とのグループリーグ初戦の一度。残り8分から大久保嘉人(当時ヴィッセル神戸)に代わって出場し、虎の子の1点を死守してつかんだ勝利に貢献した。
ディフェンダー、特に運動量を求められるサイドバックへの適性をもとから持ち合わせていたのだろう。ブンデスリーガのフライブルク、復帰したアルビレックスをへて移籍したグランパスで転機が訪れる。
2年目となった2014シーズンの序盤。けが人が続出し、特に壊滅状態に陥っていた右サイドバックで、西野朗監督(現日本サッカー協会技術委員長)から急きょ指名された矢野が獅子奮迅の活躍を演じる。
「けが人が多いなかで『自分がやるかもしれない』とは想定していた。試合に出る以上は、任されたポジションの仕事をする。言い訳は許されない」
プロフェッショナリズムに徹した矢野は、フォワードの感性を駆使した攻撃参加と鋭いクロスも披露。セットプレー時には高さを生かして相手の脅威にもなり、30歳にして新境地を開拓してみせた。
迎えた今シーズン。古巣からの熱いラブコールを受けて、5年ぶりにアルビレックスの一員となった。登録はかつての「フォワード」ではなく「ディフェンダー」となった。
「力になりたいという気持ちがある。メンバーも変わって若い選手も多くなったなかで、僕は経験の多いほうなので、その意味でもチームを引っ張っていかなきゃいけないと思っています」
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SCフライブルク時代…ドイツのサッカーも経験
(c) Getty Images
■サイドバックで感じている「楽しさ」とは
グランパスのときは非常事態もあって、右サイドバックでのプレーを進んで受け入れた。翻ってアルビレックスの状況は違う。フォワードに未練はないのか。矢野は静かに首を横に振った。
「監督に求められる仕事ができれば、という気持ちでいまはプレーしています。サイドバックでのプレーに楽しさを感じているし、フォワードに戻りたいと感じているわけでもないので」
対戦相手やファン・サポーターをも驚かせた転向からまもなく4年。新たなポジションで感じている「楽しさ」が、マリノスとの90分間に凝縮されていたと今度は屈託なく笑う。
「ああいう(齋藤のように)アタックしてくる選手との駆け引きとか、今日の試合ではなかなか出せなかったけど、クロスなどで攻撃の部分に関わっていく自分のよさといったところですね」
試合は1‐1で引き分けた。前半33分に先制を許すも、7分後に新外国人のFWホニが初ゴールをゲットした。90分間を通して支配されながらも勝ち越し点を許さなかったのは、齋藤から生まれる意外性と創造性に富んだプレーを封じたことが大きい。
「僕だけじゃなくて、チーム全体が守備という感じになってしまったけど、これがいまできること。ただ、先制点を取られているのがもったいないですよね」
YBCルヴァンカップを含めて、三浦文丈新監督のもと、公式戦でまだ白星をあげていない。5試合で3分け2敗。すべてで先制点を許した。まだまだ積み重ねていくべきことがあると、矢野は続ける。
「ゲームの流れを見ながら、しっかり(若い選手たちに)言っていかないといけない。全体のプレーの質や精度も、もっと上げていかないと」
マリノス戦に臨んだ11人の平均年齢は24.82歳。ホニや中心を担う小泉慶は21歳で、ボランチ原輝綺に至って18歳の高卒ルーキーだ。若さと爆発力は表裏一体でもある。新星アルビレックスを上昇気流に乗せるために、矢野をはじめとする30代のベテランたちが縁の下を支えていく。