【スポーツビジネスを読む】びわこ成蹊スポーツ大学・大河正明学長 元銀行マンによるJリーグとBリーグを巡る冒険 前編 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【スポーツビジネスを読む】びわこ成蹊スポーツ大学・大河正明学長 元銀行マンによるJリーグとBリーグを巡る冒険 前編

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【スポーツビジネスを読む】びわこ成蹊スポーツ大学・大河正明学長 元銀行マンによるJリーグとBリーグを巡る冒険 前編
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スポーツの大学」と聞き、連想する学校はいったいどこだろう。

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■スポーツビジネスを志す学生はどうするべきか…

日本体育大学、日本女子体育大学、大阪体育大学、鹿屋体育大学、国際武道大学ほかにも日本大学、東海大学、国士舘大学などの体育学部を挙げる方々もいるだろう。

もちろんこうした大学には、スポーツ全般に通じる学科が数多く設定されているが、おおむね「スポーツ選手を輩出する機関」として想起する方が多いだろう。

では「スポーツビジネスに携わりたい」と志した際、いったいどんな進路を選択するべきだろうか。残念ながら…としてよいだろう、今現在それに相当する専門の教育機関はないとしてよい 。数々のスポーツビジネスに手をつけてきたが、その中で体育大学出身のメンバーはきわめて少なく、むしろさまざまな教育機関から偏りなく携わっているメンバーが大多数だからだ。

最高学府進学時、スポーツビジネスを志す学生は、どうするべきなのだろうか。

ひょっとしたら、「びわこ成蹊スポーツ大学」はその回答のひとつとなりえるかもしれない。

びわこ成蹊スポーツ大学 (C) びわこ成蹊スポーツ大学

同大学が全国区の知名度を持つかと問われると「まだ…」と答えるしかない。しかし将来的に「スポーツビジネスに携わるなら、びわこ成蹊スポーツ大学」と期待される教育機関のひとつと思う。

なぜ、同大にそうした期待がかかるのか、一般社団法人日本バレーボールリーグ機構副会長でもある、びわこ成蹊スポーツ大学・大河正明学長に話を聞いた。

日本のスポーツビジネス界において大河さんの名を知らぬ者などなかろう。大河さんは三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)入行後、公益社団法人日本プロサッカーリーグJリーグ)に転身。常務理事を務め、Jリーグクラブライセンス制度の導入やJ3創立などに尽力。さらに公益社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ・チェアマンなどを歴任。Bリーグの隆盛にも一役買った。退任後、2020年7月から、びわこ成蹊スポーツ大学副学長となり21年10月、学長に就任。22年9月からVリーグ機構の副会長も兼任する。

しかしだからといって全読者が大河さんを知るわけでもないだろうゆえ、ここではおさらいをしておきたい。

大河正明(おおかわ・まさあき)

びわこ成蹊スポーツ大学学長

1958年5月31日生、京都市出身。洛星高校、京都大学法学部卒。1981年、三菱銀行(現・三菱UFJ)入行。95年から97年まで当時の社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に出向。同行でリテール営業部部長、理事・支店長などを務める。2010年10月退行後、11月にJリーグに転身。管理統括本部長・クラブライセンスマネージャーを経て、Jリーグ理事・常務理事を務める。15年、JBAのガバナンス強化と組織改革推進のため専務理事・事務総長に就任し、同9月よりBリーグ・チェアマンとして新リーグ立ち上げを行う。20年7月よりびわこ成蹊スポーツ大学副学長。21年10月より同大学学長。22年9月より一般社団法人日本バレーボールリーグ機構副会長も兼務する。

■銀行マンとしてJリーグへ出向

びわこ成蹊スポーツ大学・大河正明学長 (C) びわこ成蹊スポーツ大学

大河さんは中学・高校とバスケットボールに親しんだ経験はあるものの、京都大学卒業後1981年に銀行マンに。スポーツビジネスとは縁がないサラリーマン生活と思われた。しかし95年5月、まだ創設間もないJリーグへの出向という人事に身を委ねた。

当時、Jリーグは3シーズン目、「まだバブル甚だしい雰囲気も残っていましたが、少し頭打ちになってきた頃でしたか…。出向してどんな仕事をするのかはまったく想像できなかったです。川淵さん(Jリーグ初代チェアマン川淵三郎氏)を王将とすると飛車角なのか金なのか桂馬なのかわかりませんが、当時はJリーグを強くしたい、事業的に大きくしたいという思いの方がたくさんいらっしゃって、その考えを聞き現実的に仕事に落とし込んでいくのが僕の仕事なんだろうなと考えていました」とその振り出しを回想した。

「銀行でも融資したり、何かその相談に乗り回答することでお客様に喜んでもらうことは節目節目にありますが、毎週末すごく喜ばれたり、すごく怒られたり、日本代表に至っては卵を投げられたり、これだけみなさんの心を揺さぶり動かすような仕事に携われるのはスポーツ以外に絶対にない。やはり感動と隣り合わせの仕事なんだと痛感しました」。

大河さんはこの2年2カ月後に出向を解かれ、銀行に戻った。「何故、Jリーグに就職することになったか、当時のことを思い出すと、銀行員って面白くないかもしれないけど結局、一番安全だな…とは考えたわけです。実際、たまたま三菱銀行に入ってつぶれなかった。そして50歳ぐらいまで勤め上げたら、関連会社に出向して、食いっぱぐれもなく、退職金ももらえて、一生食べていけます。ある意味安定路線みたいな象徴。それでもなんとなく消化不良な感じで50歳ちょっとぐらいでしたし、身体はまだ動くし、やはり夢をかける仕事があったらまだチャレンジできるなと考えたんです。銀行の仕事は好きだったんですけれどもご縁があって…」。

これには布石があった。Jリーグ出向の際、1999年に正式にスタートしたJ2構想が生まれていた。このJ2構想の基盤作りに大河さんは関与。銀行マンとしてクラブの財政面、経営面などを支援、これは銀行で企業に融資を行う際と変わりがない作業だったがゆえ、銀行で育まれた知見が生かされた。この経験が「クラブライセンス制度」導入に大きく寄与することになる。

「クラブライセンス制度」はドイツで導入されたのがはじまりとされ、クラブのリーグ戦参加資格基準となっていた。欧州サッカー連盟(UEFA)はチャンピオンズリーグへの参加資格として2004-05シーズンに導入。これがライセンス制度の各大陸への普及により拍車をかけた。日本サッカー協会(JFA)では10年5月20日の理事会で「クラブライセンス制度のJリーグへの権限委譲の件」が協議されアジアサッカー連盟(AFC)の制度に基づき、人事組織、財務、法務、競技、施設と5つの分野において一定の基準により審査を行いライセンス発行の方針となった。

銀行に戻った以降も何度かJリーグから誘いは受けていた。だが、このクラブライセンス制度について聞かされ「なるほどね。これはやっぱりいかんよなと…。クラブライセンスをしっかりやっていかないと(クラブが)自立できない。Jリーグだけでなく、日本のスポーツの発展につながるな」と考え、支店長まで務めた銀行を辞し、ふたたびJリーグにチャレンジ。「やはりスポーツに関わる人たちの社会的価値を上げたいと勝手に思ってね、今でも思っていますけども…。それで家族にも内緒で銀行を辞めることに決め、内緒っていうか、言わなかっただけですよ」と笑った。

Jリーグの「クラブライセンス制度」については当初、クラブ側の理解力の低さから不平不満も漏れ聞こえた。「Jリーグの中でもクラブライセンスは、取得しないとリーグ戦に出場できない、チャンピオンズリーグに出場できない…という踏み絵みたいに思われていますが、まったくそうではありません。組織、財務、法務が整備されればチームはより強固に、施設が整備されれば集客力アップにつながり、それはリーグの発展へと広がっていく。この点はもう少し理解してもらいたい」と明言した。

Bリーグ時代の大河正明チェアマン(左)と千葉ジェッツの富樫勇樹 (C) Getty Images

■ブラック企業・日本スポーツ界

1990年代のスポーツ業界は、悪名高き大手広告代理店に負けないぐらいブラックだった。給料は低い、残業代はつかない、休みはない、退職金なんてない。「結婚しました、子どもが生まれました…」となると、奥さんから「お願いだから仕事を辞めてください」と言われる。それがスポーツの仕事の世界だった。

スポーツの仕事の地位の低さは日本特有でもある。大河さんは「世界ではバイエルン・ミュンヘンに勤めているとなると、それはもちろん選手ではなくても日本で一流企業に勤めているように『あの人はバイエルンに勤めている』と羨望されるものです。アメリカではNBAもやはりすごい世界で勝負していると感じました。でも、日本では一流企業との間に大きな差があり、日本のスポーツ界はブラック企業の延長みたいな。今でもバドミントンやハンドボールで見られるように、バスケの経営もゴタゴタ続きでしたし、ガバナンスもなければ、暴言暴力も散見され、ダメダメ組織の典型みたいな状況にある。やはりここを変えていかなければならない」と業界の悪しきトレンドを憂えた。

大河さんはこう続ける。「東大を卒業して官僚になるよりも、サッカーも含めオリンピックでメダルが取れる競技の日本代表になるほうが難易度は高い。学年で考えると100人もいないですよね。国家公務員総合職試験に合格するよりも難しい。しかし、日本はいまだに偏差値崇拝みたいなものが残り、国数英に理科社会までできればよい という風潮がある。だから『スポーツしかできないくせに、あいつあんなことやってんだ』と国民の半分以上が思っている。そういう発想を変えなきゃいけない。中田英寿さんなんか、一国の首相よりもよっぽど面白いことを考え、面白いこと喋ったりしますよね」。

スポーツ産業は、憧れの職業のひとつ。しかし日本ではそれがゆえに「スポーツの仕事をしているからには、給与は安くていいだろう」と、どういうからくりか搾取産業となってしまっている。メインストリームで、コンテンツホルダーである国内競技団体(NF) は待遇が悪く、そのコンテンツを放送するテレビ局のほうが地位が高い。スポンサーセールスをする大手広告代理店のほうが高給。これが日本スポーツ界の仕組みである。日本におけるスポーツそのものの社会的地位の低さが影響している。

学生に講義をする大河正明学長 (C) びわこ成蹊スポーツ大学

「例えばアメリカでは行政が出資してスタジアムを建設することがほとんど。それはスポーツ・コンテンツが地域の活性化に直結するビジネスと理解されているから。僕もサッカー場を作って地域活性化につなげたいとか夢のアリーナを作りたいと思うんだけども、それが日本では民設民営でも『なぜサッカーのために土地を提供したり税金を減免するのか』と反対意見が大きい。横浜FCも経営者自身が出資するとしているのに、それでも『反対』と声が上がる。アリーナも同様ですよね。そうなってくるとNBAのように、スポーツ団体としてだけではなく、自ら配信にも携わるようなメディア・カンパニーとなり、社会的地位を上げていくことが必要だと考えます」。

■サッカーからバスケ界への転身

大河さんは銀行からJリーグに転身。Jリーグのクラブライセンス制度を整備し、クラブの経営状況健全化に尽力してきた。そのため2014年の夏頃には多忙を極めた。15年の1月決算をターゲットに「3期連続赤字ではJ1には残留は難しい」などとシリアスで込み入ったやり取りも多かった。「債務超過の解消により水面下にずっと沈みっぱなしで息もできなかったクラブが、やっと水面上に顔を出して生きながらえるような状況が見えてきました。その一方でバスケットボール界では、日本代表の国際試合出場停止処分が下されていました。僕は中学高校とバスケットをやっていて、自分がやっていたバスケットボールが大変なことになっているな…と思っていたんですが、15年1月に川淵さんが、助っ人でタスクフォースのアドバイザーになり、バスケを救うための白馬の騎士みたいになっちゃったわけですね」と当時を振り返る。

バスケ界でもその辣腕を振るった川淵三郎さん (C) Getty Images

国際バスケットボール連盟(FIBA)パトリック・バウマン事務総長は14年4月に来日。当時、NBLとbjリーグとに分裂していた日本バスケ界に対し「トップリーグの一元化」「ガバナンス(組織統治)改善」を要求。この改善なくしては、男女すべてのカテゴリーで国際試合参加は認められないとした。これはつまり東京五輪にさえ男子代表は出場できない事態を意味した。同年10月には日本バスケットボール協会深津泰彦会長が辞任。ここでFIBAが白羽の矢を立てたのが川淵さんだった。川淵さんは、「ジャパン2024タスクフォース」のチェアマンとして、バスケ界再建に尽力。片腕として弁護士の境田正樹さんがサポートした。

15年1月、2人の素案にFIBAも合意。2つのリーグを合併するという解決策ではなく、新リーグ創設の方針が決定され、以降新たなプロバスケットボール団体が創設される動きが活発化。同年4月1日には川淵さんと境田さんを理事として「一般社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(略称JPBL)」が登記される。後にこれが16年3月にそのまま公益社団法人化され、Bリーグの運営母体となった。

実は15年2月、境田さんは大河さんを訪ねている。

■2016年、Bリーグ開幕は100%無理

大河さん自身、Jリーグに身を置きながら、バスケットボール界の出来事については気を揉んでいた。もちろん、同じスポーツ界の問題でもあったが、自身がバスケ経験者だった点も大きい。「中学高校の6年間が楽しかったのはバスケットがあったから…という思いはありましたね」。大河さんにとっての懸念点は、ガバナンスの重要性、バスケ協会の規約・規程の見直し、ライセンス制度…などなどその領域は多岐にわたった。B1、B2、B3のカテゴリーに分類、その上で2016年秋開幕が決まっていた。大河さんは、開幕は難しい。100%不可能と考えた。

「このままでは厳しいなぁ…と思いまして(2015年)3月26日かな、川淵さんに会いに行きました。ノウハウもない中、どこでどのボタンを押せば答えにたどり着くか、誰も関心がなかった。僕たちもJリーグを公益法人化する際に一から定款を作り直し、クラブライセンスの制定を通して4年余り、定款など規程類の作成ノウハウは持っていたにもかかわらず、四苦八苦していましたから。『本当に厳しいと思います』と話をしました。川淵さんは悲痛な顔をされてました」。

大河さんにとって同年1月、Jリーグの債務超過解決が見えていた。そんな中、自身にとって次なる最大のミッションはどこに置くべきか…思いを巡らせている時期でもあった。「川淵さんの性格からして、必要だったら『お前やれ』と言ってくるだろうとは思ってはいました。その際、事務総長を探しているとは聞いたのですが、すると『Jリーグと兼務できないか』とくるわけです。それはさすがに無理なのでお断りしました」。

すると後日3月30日、川淵さんから電話があった。「夜8時半ぐらいかな。『事務総長が見つからない』という。『ひょっとしたらこれは天の声かな』と思いました。バスケットが困ってる…その仕事を手伝えという。それで自分が役に立てるんであれば、お引き受けしてもいいですよと伝えました」。

当時、Jリーグは村井満・前チェアマンが着任したばかり。大河さん自身も常務理事の任期が残っていた。「勝手にバスケに行ってしまうことになるので『村井さんの了解だけは得てほしい』とお願いはしました」。

するとすべては即、動き出した。4月2日は打ち合わせに参加。境田さんも同席のもと、バスケ界の3つの大きな課題がつまびらかにされた。

1つ目は、日本バスケットボール協会のガバナンス問題。JBAもしかりだが、地方協会もまた法人化さえされておらず、資金の流れも人事も不透明だった。理事の数も多すぎた。

2つ目は、分裂していたリーグの統一。新しい指針を持ったトップリーグの創設が急務だった。

3つ目が、バスケ男子代表の強化・育成だった。

大河さんは「個人的には、ガバナンス改革とリーグ統一は風が吹いてるからできると思いました。FIBAという黒船があり、川淵さんが推進している。何か言われたら水戸黄門の印籠を見せるみたいなもんです。『世界大会に出場できなくてもかまわないのか』と。もちろん、いろいろな声があるにしても川淵さんが『これで行くぞ』と一番得意なブルドーザーのように道を開くことができる。その先は、どのボタンをどう押したらゴールにたどり着くか…僕なりにノウハウはありましたから、正直大変でしたが、この仕事は行けるかと。ただし、男子代表の強化は自分ではできない。ここはどなたかにお願いする他力本願でした」。

バスケ関係者がすべて納得していたかは定かでない。しかし、そのままでは代表が世界大会に出場できないという足かせは、その流れに「反対すること、そのものがバスケ界への反逆」とみなされる大問題だった。

この点についても大河さんは「すべては結果次第でした。男子代表の強化は2006年世界選手権*の際も推進されましたが、うまくいかなかった。それが19年のワールドカップ、東京五輪も自力で出場。Bリーグは2016年9月に華々しく開幕。26年には新しいB1に生まれ変わる流れです。選手の年俸は3倍程度になっていますし、事業規模もチームとして2億5,000万円程度だったのが20億円を狙おうとするチームも出てきている。みんな『ついてきてよかった』となりましたが、これがことごとく失敗していたら、これほどまでに順風満帆とはいかなかったでしょう」と当時を振り返った。

*日本開催。開催国として1次ラウンド突破を狙ったが1勝を挙げたのみで敗退した。

初期はリーグ、協会が主導し成長を後押し、現在はクラブそのものが自主的に成長を継続している。Bリーグはここから「アリーナ改革」「新B1構想」などの非連続的「二段ロケット」的成長が2026年に向けて計画されている。この点、大河さんは「ものすごく期待していいと思います」と太鼓判を押す。

しかし、大河さん自身が打ち出した新基軸によって、自らの身の振り方を考えるようにもなった。自身は15年4月にJBA事務総長候補となって以来、Bリーグチェアマンを退任する20年6 月までバスケ界に寄与。任期だけを考えれば23年まで登板可能の予定だった。19年7月1日に「BEYOND 2020」と銘打った将来的ビジョンを発表。26年に大きく姿を変える「Bリーグ改革」を打ち出した。

ここで大河さんはひとつの問題に気づく。26年に新しいBリーグが誕生するロードマップを敷いた際、この審査を24年に行う必要がある。自身がチェアマンを23年まで満了してしまうと、助走期間は大河さんが担当し、審査から改革までを新たなチェアマンに委ねるスケジュールとなってしまう。そう考えるとそもそも助走期間から24年の審査、26年の新シーズンを迎えてくれる後任に託すべきではないか…。大河さんはそう考えるに至った。

公益社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ島田慎二代表理事CEO 撮影:SPREAD編集部

「その後任を指名すること自体、株式会社ではないスポーツ界のガバナンス上、すべきではないと思いました。役員選考委員会から島田さん(島田慎二・現チェアマン)の名前が挙がった際も、26年構想の骨格を守ってくれる方でお願いしたいという条件だけを出しました。島田さんは『突然、投げ込まれた』とおっしゃるかもしれないですが、島田さんも新構想については知っていましたから(笑)。本当に素晴らしいかじ取りで、自身の発案のようにがんばっていただいています。そうした意味でも引き継いでいただき、適任だったと思っています」。

2020年1月の理事会で次の4年を一緒に歩んでいくスポンサー契約もまとまった。同年2月19日、チェアマンを退こうと決断。ちょうど日本で新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう直前だった。

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著者プロフィール

松永裕司●Stats Perform Vice President

NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 東京マラソン事務局広報ディレクター/ Microsoft毎日新聞の協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Directorなどを歴任。出版社、ラジオ、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験を持つ。1990年代をニューヨークで2000年代初頭をアトランタで過ごし帰国。Forbes Official Columnist

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