【スポーツ回顧録】佐藤琢磨インディ・シリーズ初優勝  狙え、インディ500のポディウム | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【スポーツ回顧録】佐藤琢磨インディ・シリーズ初優勝  狙え、インディ500のポディウム

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【スポーツ回顧録】佐藤琢磨インディ・シリーズ初優勝  狙え、インディ500のポディウム
  • 【スポーツ回顧録】佐藤琢磨インディ・シリーズ初優勝  狙え、インディ500のポディウム

■わずか5年でF1のシートを獲得、日本人として二人目となる3位表彰台も

モータースポーツがスポーツ紙の一面を飾るなど、いつ以来だろうか。

やっぱり、琢磨だった。世界的メジャー・オープンホイールレースにおいて、日本人初の優勝という快挙をもたらしたのは、やはり佐藤琢磨だ。

米国最高峰の自動車レース、インディカー・シリーズは4月21日(現地時間)、第3戦がカリフォルニア州ロングビーチの市街地コースで行われ、A・J・フォイトの佐藤琢磨が1時間50分8秒7155で、念願の初優勝を果たした。日本のモータースポーツ・ファンにとって昨今、稀に見る朗報。

琢磨は、日本レース界の王道を歩んでいたにも関わらず、F1界からのスーパーアグリ撤退以来、これまで不遇と表現しても差し支えない年月を過ごして来た。

19歳でホンダが主催する鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラの門を叩くと、これを主席で卒業。即、全日本F3選手権に参戦。2000年からイギリスF3選手権に飛び込むと、2001年には日本人初となる同シリーズのチャンピオンに輝き、同年F3の最高峰であるマカオGPも制した。

後にF1において、同僚となるジェンソン・バトン(2013年当時マクラーレン)は、イギリスF3でシリーズ3位、マカオGPでも3位という成績。顧みると、琢磨は2009年のF1王者をも上回る実績をひっさげ2002年、ジョーダンからF1デビューを果たした。フォーミュラカートを初めてドライブして以来、わずか5年でF1のシートを得るとは、にわかに信じがたい「スピード出世」だ。

2003年の日本GPでは、BARホンダを駆り、6位初入賞。2004年には、バトンともにBARの大躍進を牽引。同年インディアナポリスで行われたアメリカGPにおいて、1990年日本GP鈴木亜久里以来、日本人として二人目となる3位表彰台に上がった。

しかし、この年をピークとし、琢磨のキャリアは下り始める。2005年のBARホンダは、前年の躍進が嘘のように失速。結果シートを失った琢磨は2006年から、鈴木亜久里監督率いる「スーパーアグリ・ホンダ」から「オールジャパン体制」で参戦。しかし、21世紀のF1においてプライベートチームは案の定苦戦。資金難もあって、2008年にはチームとともに撤退となった。

この後、F1シートの獲得を目指し「浪人」となるが、2010年からインディカー・シリーズに参戦。だが、初年度は総合21位、二年目の2011年もランキング13位に終わるなど、ドライバーとしての琢磨は「過去の人」となった感を抱かせた。

■琢磨の類まれなクレバーさ

筆者がこれまでインタビューしてきたスポーツ・アスリートの中で、琢磨はもっともクレバーな選手のひとりだ。

当時は、飛ぶ鳥を落とす勢いのF1ドライバー時代。帰国時には、ホテルに缶詰めにされ、次々と入れ替わり立ち替わり部屋を訪れては、同じような質問を繰り返すメディアのインタビューを受けていた。そうした状況の中、琢磨は集中力を切らすことなく、丹念な表現で、時として退屈な、時として意地の悪い質問に的確に回答して行く。その瞬間瞬間、部屋の中で起きている瑣末な出来事―――例えばインタビュー・シーンを撮影しているカメラマンの動き、琢磨にドリンクを差し出すスタッフの動きなどを観察し、撮影の邪魔にならないようカメラマンのレンズの前から、自分のマグカップを除けるなど―――に配慮を見せる。そんな洞察力を見せつつ、非常に巧みに言葉を操る。有名アスリートの多くは、周囲に気を使われることはあっても、気を配るとはなかなかないものだ。

BARホンダ時代、バトンと同席してのインタビューも珍しくなかった。バトンは、もっとカジュアルでフランクなナイスガイ。それはそれで、トップ選手として珍しい。

トップアスリートへのインタビューは全般的に難しい。言葉を駆使して、スポーツの感覚を表現する作業は、常人には理解し難いし、常人に理解されないことをアスリートも理解しているがため、インタビュー側もよほど注力し、挑まなければ「はい、頑張ります」、「調子はいいですよ」と通り一遍の回答に終始し、原稿にならない。しかし、琢磨の場合は、彼が話した通りに原稿に起こして行くことが可能なほど、理路整然と説明するコミュニケーション能力を備えている。

インタビューを終える度に「日本人F1ドライバーとして、ポディウムの頂点に立つのは琢磨だ」、そう確信したものである。

そんな筆者の確信とは裏腹に、琢磨が去ったF1界では、バトンが2009年のチャンピオンとなり、小林可夢偉の目覚ましい活躍があった。

琢磨再浮上のきっかけは2012年、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに移籍したことだ。戦力を十分に整えたチームで琢磨は息を吹き返す。世界三大レースのひとつ「インディ500マイル」で堂々の2位を走行、ファイナルラップのデッドヒートで惜しくも順位を下げたが、優勝争いに加わり、ドライバーとしてのピークは過ぎ去っているのではない実力を証明してみせた。また、同年の第12戦では、2位表彰台に上がり、日本人ドライバーとして最高位タイを記録。

そして、参戦4年目の今年、A・J・フォイトに移籍。シリーズ3戦目(インディ通算52戦目)にして、ついにポディウムの頂点に上りつめた。

おめでとう、琢磨!

もちろん、本人もこの結果だけに満足しているわけではないだろう。5月26日に行われるインディ500マイル、ここでぜひ昨年の雪辱を果たして欲しいもの。そして、きっと琢磨なら成し遂げてくれるに違いない。

Yahoo!ニュース個人 2013年4月23日掲載分に加筆転載

著者プロフィール

たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー

『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨークで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。

MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。

推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。

リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、ニューヨーク・メッツ推し。

著書に『My Lost New York ~ BAR評論家がつづる九・一一前夜と現在(いま)』、『麗しきバーテンダーたち』など。

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