大卒では史上2人目となる通算400試合出場
J1リーグは年間34試合を戦う。3シーズンにわたって休まず出場し続けて、ようやく100試合出場をクリアできる。だからこそ、通算出場試合記録はあらゆる能力を示すバロメーターになる。
選手としてただ単に実力があるだけではない。故障と無縁な体。身心のコンディションを常に整える自己管理能力。その時々の監督が求める戦術を、ピッチで具現化する理解力も求められる。
Jリーグが産声をあげてから今年で四半世紀。紡がれてきた「鉄人伝説」の系譜に、史上17人目となる通算400試合出場を果たした川崎フロンターレの大黒柱、MF中村憲剛が名前を加えた。
しかも、大卒に限ればジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉に次いでわずか2人目だ。サッカー選手の平均寿命は決して長くない。23歳になる年でプロになる大卒組にとっては、さらにハードルが高くなる。
しかも、テスト生として練習に参加して、2003シーズンの開幕前に入団を勝ち取った中央大学出身の中村は、最初の2年間をJ2で戦っている。合計で75試合に出場して、2年目はJ1再昇格への原動力になった。
「最初はJ2で2年間プレーしていますけど、そこから本当に右肩上がりでフロンターレというクラブは成長してきた。僕はそのそばにいながら、一緒に戦いながら、どんどん人も増えてきましたよね」
偉業を達成した14日のベガルタ仙台とのJ1第29節。ホームの等々力陸上競技場で、愛してやまない3人の子どもたちから花束を贈呈された中村は、試合後に自身の軌跡を懐かしそうに振り返った。
「いまでは毎試合完売になるくらい、僕が入ったときからすれば考えられないような状況になった。ただ、毎年のように選手が変わったり、監督が代わったりしながら、サポーターの方々も含めて、フロンターレを強くしようという気持ちを抱いた人たちの頑張りで、ここまで来られたと思うので」
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クラブとともに成長を遂げてきた
(c) Getty Images
フロンターレの成長とリンクする400試合
つまり、実際には13年で400試合出場を果たしたことになる。その間、ボランチやトップ下でフロンターレの象徴を担ってきた。昨シーズンは歴代最高齢となる36歳でMVPも受賞した。
J1の舞台に初めて立ったのは2005年4月3日。敵地・万博競技場で行われたガンバ大阪との第3節は後半終了間際に同点に追いつきながら、直後に失点して涙を飲んだ。
先発フル出場した中村は、続く東京ヴェルディ戦でも先発。シーズン初勝利に1‐0の完封劇で花を添えたが、等々力陸上競技場へ駆けつけた観客数は1万1061人だった。
終わってみれば、2005シーズンで2万人を超えたのはホーム開幕戦と最終節だけだった。ガンバを迎えた後者ではゴールの応酬の末に2‐4で打ちのめされ、目の前でリーグ初優勝を決められた。
この年の平均入場者数は1万3658人。必死にJ1に定着し、強豪クラブの仲間入りを果たしたいまでは2万1898人を数える。中村が隔世の感を覚えるのも、無理はないかもしれない。
「その意味で、どの試合も僕にとってはすごく大事な試合だった。本当にみんなで作った400試合だと思うし、そこは誇りに感じる。だからこそタイトルを目指して、残りのシーズンを頑張りたい」
2006シーズンはJ1で2位に躍進した。タイトルに近づけたと誰もが思ったが、2007シーズンのヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)決勝ではガンバに0‐1と惜敗した。
なかなか手が届かない頂点。2008、2009シーズンとJ1では常勝軍団・鹿島アントラーズに阻まれて2位に泣き続け、後者のシーズンではヤマザキナビスコカップ決勝でもFC東京に0‐2で屈した。
今年元日の天皇杯準優勝を含めて、6度の「2位」をすべて経験したのは、自身の他には井川祐輔だけとなった。34歳のベテランDFはしかし、けがもあって今シーズンは一度もベンチに入っていない。
タイトル獲得へ感じるかつてない大きな手応え
そして、シーズンも佳境を迎えたいま、中村はかつてない手応えを感じている。ベガルタを振り切って8年ぶりとなる決勝進出を決めた、10日のYBCルヴァンカップ準決勝の第2戦後にこう言った。
「今シーズンのチームに関しては正直、いままでとは違うな、と感じている。試合を重ねるごとに、自分たちがやるべきことをしっかりやれば、タイトルに近づいていると実感しているというか」
2000年代は典型的な堅守速攻型のチームだった。中村が操る縦パスにジュニーニョ、鄭大世(現清水エスパルス)らが飛び出すスタイルに「往復ビンタの張り合いなら、どこにも負けない」と胸を張った。
2012シーズンの途中から指揮を執った風間八宏監督(現名古屋グランパス監督)のもとでは、180度異なるスタイルを標榜。ボールを握る、つまり保持し続けてゲームと相手をも支配してきた。
ヘッドコーチから昇格する形で、今シーズンから指揮を執る鬼木達監督は前任者が築き上げたスタイルを踏襲。そこへ攻守の切り替えの速さや球際での激しい攻防など、泥臭い部分を上乗せしてきた。
上手く融合されてきたのは、5月になってからだった。それまでは苦戦を強いられた分だけ、中村をして「隙のない、渋いチームになってきている」と言わしめるほどの強さを体現できるようになった。
カップ戦では天皇杯でも勝ち上がり、25日にはベスト4進出をかけて柏レイソルと準々決勝を戦う。そして、400試合の節目に到達したJ1では、アントラーズに勝ち点5ポイント差の2位につけている。
カップ戦も含めて、戦ってきたすべての試合が鮮明に脳裏に刻まれているなかで、あえてひとつを挙げるとすれば――ベガルタとのリーグ戦後に、中村は悪戯っぽい笑顔を浮かべながら言った。
「今日ですね。一生忘れませんよ、こんな試合。もちろん、褒めているんですよ」
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必要不可欠な存在感が増していく
(c) Getty Images
一生忘れられない試合となったベガルタ戦
YBCルヴァンカップ準決勝から3戦連続での対戦となった14日のベガルタ戦。前半42分にMF家長昭博が退場となった直後に失点し、後半15分にも追加点を許した。
「それでも、0‐2になったときに試合を投げた選手が誰もいなかった。失点したときに僕はみんなの顔を見ますけど、あきらめた、という感じはなかった。そこが大きかった」
中盤の守備を固めながら、前からボールを奪いにいく姿勢を貫き、チャンスと見るやショートカウンターを繰り出した。一人ひとりが5メートル、10メートルを余計に走り回った。
愚直なサッカーは後半37分、DFエウシーニョのゴールにつながる。落胆するベガルタに追い打ちをかけるように、スタジアム全体が異様な雰囲気に支配された。
「等々力の空気が、本当にすさまじかった。2点目を取ったときは、これは逆転できると」
中村の表情を綻ばせた大声援こそが、13年もの時間をかけて積み重ねられてきた「12人目」の力だった。2分後にFW小林悠が同点弾を決めると、さらにボルテージが上がる。
さらに3分後には、再び小林がゴールを見舞う。数的不利の状況ながら5分間で3発を、しかもすべてペナルティーエリアの外から叩き込む。奇跡の逆転劇に誰もが狂喜乱舞した。
「400試合目であのまま負けていたら、逆に一生忘れられない試合になりましたよ。だからこそ、今日は一生忘れられない。ベタですけど、この言葉がこんなに似合う試合もなかなかないと思います」
このオフにキャプテンの大役を託したヒーローの小林に試合後、ジョーク交じりに声をかけた。
「(今日の試合の意味が)本当によくわかっているな!」
負けていれば、アントラーズ追撃へ白旗を上げざるをえなかった。三冠独占への可能性を残しながら迎える豊穣の秋へ。まもなく37歳になる中村は、必要不可欠な存在感をますます大きくしていく。