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株式会社ラリーアートの事実上の廃止から2年。三菱自動車はアメリカで年に一度開催されるパイクスピーク・インターナショナルヒルクライム(PPIHC)に世界初の量産電気自動車・ i-MiEV (アイ・ミーブ)の技術を盛り込んだMiEV Evolutionで挑戦することを発表する。
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パイクスピークのMiEV Evolution (C)三菱自動車
パリ・ダカール・ラリーを2年連続で制覇し、ワークスチーム解散後は三菱自動車広報部の所属となっていた増岡浩氏を選手兼監督に、技術センターの社員を中心とした小規模なチームは精鋭エンジニアたちからなるとは言え、バックヤードビルダーのプライベートチームのようにも見えたのは正直なところではある。
◆【三菱ラリーアート正史】第4回 トロイカ体制での復権、リーマンショック、経営再建、そして断腸の幕引き
■パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム出場
だが海外のモータースポーツ専門会社によるチームではないがゆえ、市販車開発のエンジニアたちが現場に臨み、フィルターなしに体験として結果を持ち帰るのだから、それは文字通りに三菱自動車の「ワークス」 (ワーカーズか…)チームだ。そのチームが「ラリーアート」の名称を使うことはなかったが、電動車両での活動は新しい時代のモータースポーツの姿を示し、小さな光が見えたのも事実だ。
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PPIHC応援フラッグ 提供:平賀一洋
パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムへの出場を「三菱ワークス復活」と報じた挑戦発表以降、メディアの扱いは小さかったが当時、三菱自動車の技術センターに勤務し自主的活動としてさまざまな応援企画を進めた三菱OB・平賀一洋氏によると、国内各事業所からの寄せ書き応援フラッグが集まるなど社内の盛り上がりは大きかったという。
平賀氏がPPIHCでの優勝の報を聞き、大急ぎで横断幕製作して掲示を申し出たところ、「事前予約のない掲示は不可」と、けんもほろろに却下されたとのエピソードは平賀氏には申し訳なくも、ほほえましく思える。
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2014年のPPIHCでの優勝の報を聞いた平賀氏が作成した結果速報、幻の優勝横断幕デザイン 提供:平賀一洋
PPIHCへの挑戦から遅れること1年。2013年からはアウトランダーPHEVによるクロスカントリーラリー出場も始まった。国内外のチームとのジョイント、PPIHCと合わせて、2つのモータースポーツプログラムが並走する様子は将来の本格的活動再開への希望も更にふくらむ。
当初カラーリング以外は市販車然としたラリーカーだったが、フロントデザインに現在の三菱のアイデンティティーであるダイナミックシールドを採用する大がかりなフェイスリフトが行われ、2015年のラリーカーはそれに加え驚きのワイドボディをまとって姿を現した。
結果こそ完走のみとなったが、ボディにまで手を加えたアウトランダーPHEVラリーカーは期待を持たせるには十分だった。が、再びか三度か、三菱自動車を大きく揺るがす危機が訪れ、上昇機運に見えた電動車両によるモータースポーツも途絶えてしまった。
アウトランダーPHEV バハ・ポルタレグレ出場車(C)三菱自動車
■驚きをもたらしたラリーアート復活宣言
時計の針を現在に戻そう。アウトランダーPHEVのラリー挑戦から数年が経過し、「もうラリーアート、モータースポーツの復活はないだろう」と思っていたところの復活宣言には誰もが驚いたことだろう 。
復活宣言直後の個人的やり取りゆえ、ここでお名前は控えるが、かつて経営階層におられたさる方も「本当に驚いた」とおっしゃられた。また、三菱自動車でのキャリアのほとんどをラリーアートで過ごし、現在はコルト・モータースポーツ・クラブ(CMSC) 本部事務局長としてラリーアートのスピリットを守ってきた、おそらくは誰よりもその復活を望んでいたであろう元マネージャー・須賀健太郎氏も当初は「半信半疑だ」と言っていたほどだ。
だが予兆はあった。増岡選手が2002年、パリダカ初優勝を成し遂げたワークス・パジェロが2021年春、三菱自動車本社ショールームに展示されたのだ。それまでの間、頑なにモータースポーツを拒絶していたかのような三菱が見せた変化だった。「ショールームにパリダカ・パジェロ展示の話が出たとき、販売をやめてしまったクルマの展示をしていいものか悩みました」。
そう語るのは、現在三菱自動車本社ショールームの責任者を務める丸谷美佐さんだ。丸谷さんはかつて宣伝部に所属しラリーアートの設立時を知る貴重な方でもある。当時のラリーアートに対しては「何を始めるかよくわかりませんでしたが、なんだかかっこいいなぁ、と」とも語ってくれた。宣伝部業務で多くの関わりを持ったこともあり「パリダカが大好きで」と丸谷さん。最終的にパリダカ・パジェロの展示を決まり「ショールーム搬入のためにキャリアカーからパジェロが下りてきた瞬間、心の底からワクワクして、またパリダカの空気に触れることができたのは、本当に嬉しかった!」と振り返る。
その後、ショールームを訪れた多くの方々からのラリーアート復活を喜ぶ声を聞く。丸谷さんは昔からのファンだけでなく、三菱自動車のモータースポーツ全盛期を知らない人たちにも身近に感じてもらえるようにラリーアートのブランドを活用していきたいと話を結んだ。
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パジェロMPR9 ショールーム展示と同型の篠塚車
余談ではあるが私は三菱の現役社員時代、イベントで借り出したこのパジェロを「移動」というレベルながら運転したことがある。スパルタンな室内の割には運転しやすかった印象がある。それもまた、パリダカでのパジェロの強さを支えた要素のひとつであったと思う。
もうお一人、現役の三菱自動車社員のお話を伺うことができた。本社で人事部門に従事する村田竜一さんは、2021年5月のラリーアート復活の発表に「三菱ファン社員を自認する私も、まったくのノーマークで驚きました」と話す。村田さんは40年以上前に生産されたギャランΣ(シグマ)を保有する、三菱自動車の社員であり熱烈な三菱ファンである。
同時に、いかにも管理部門の社員らしい冷静な一面を覗かせる。「赤字決算の報告の中でのラリーアート復活の発表には、コロナで先行きが不透明になりつつある中で『夢のある』、『お金のかかる』事業の再開に、本当にいいのだろうかと若干の疑問も抱きました。若手や中堅社員からも同様の意見を聞きました」。私はこの言葉に、逆に安心した。一斉に盛り上がって突き進むのではなく、「ちょっと待てよ」と立ち止まって考える姿勢に。しかし、最終的には三菱ファン社員の顔で語ってくれた。
「耐久試験の種類の多さ、目標となる基準値も高いのだと思います。そこに『ラリーという出題範囲不明の想定外試験』からのフィードバックが加わって商品開発に活かされてきたのは三菱の特徴であり、強みだと思います」。
なるほど、そういう言い回しがあったか!
ラリーを「出題範囲不明の想定外試験」としてクルマづくりを分かりやすく表現したことに驚いた。村田さんは自ら進んで販売会社に出向し営業現場を経験している。通り一遍のセールストークの通用しなくなっていた時代に得た、村田さん自身の強みだ。
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村田さん所蔵のラリーコートは学生時代に購入したもの 写真提供:村田竜一
■「熱血を忘れてないか。」 今が最後のチャンス
「熱血を忘れてないか。」 20年前の三菱自動車の新聞広告に記されたヘッドコピーだ。そして、先の村田さんの言わんとするところを端的に言い表した言葉が続く。
「壊れたら、壊れないクルマを作ればいい。勝った数より負けた数の方が多い。その負けが三菱のクルマを強くした」。
1960年代からモータースポーツ活動を推進し乗用車商品企画部長を務め、広告掲載当時はラリーアートの社長であった北根幸道氏の言葉だ。そこにあるのはラリーでの勝ち負けではない。クルマづくりの本質だ。
そのコピーを座右の銘として三菱自動車の技術センターに勤める若いエンジニアを私は知っている。彼は三菱がモータースポーツ活動を終えた後の入社だ。いつかモータースポーツに関わることを夢見ているだろう。
かつて極限に挑んだ人たちの技術とマインドを、彼のような人材に継承してもらうことも急ぐ必要がある。ラリーアートが存在した時代にモータースポーツ活動に関わった社員たちも年齢を重ね、三菱自動車を離れる日も遠くはない。今がその、最後のチャンスだと思う。
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アウトランダーPHEV ラリーアートStyle(C)三菱自動車
新生ラリーアートのスタートは現状あくまでも純正用品(車両装着アクセサリー)ブランドとしてではあるが、三菱自動車・加藤社長は、こうも言っている。
「このブランドのスピリットを感じられるような活動を検討しております」。
若き日にアフリカを疾走するパジェロに声援を送っていたであろう三菱自動車のトップが、自らの言葉で新生ラリーアートの将来を語る。それは世界のモータースポーツ2大イベントを同時に追った時代と単純に比較はできないが、一時期とはいえラリーアートのポジションを変えたことによってファンからはやや遠い存在になってしまった三菱自動車のモータースポーツを再びファンに還そうとした、象徴的な2005年体制発表に通じるスピリットを感じた。
熱血を忘れていない人が、ここにもいた、と。
私が三菱自動車を離れてまもなく20年が過ぎるが、「三菱自動車マンの思考」は忘れてはいない。あくまで私見であるとお断りしておくが、検討とは、何を、いつやるか、だ。
三菱自動車は今、みずからを強くするために「RALLIART」と刻印されたパーツを再び手に取った。最初に手にしたのは一本のボルトかもしれないが、無数のパーツはやがて組み上げられ、私たちがもっとも望んでいる「活動」も必ずや再開される。三菱自動車は新生ラリーアートとともに、いつか見ていた道を再び目指して走り始めると私は固く信じる。
それが訪れたときこそ10余年のラリーアート空白の期間を、再びの浮揚に備えた雌伏の時間と書き換えたいと思う。
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(C)三菱自動車
※本稿執筆にあたり、不出来な後輩にお力添えくださった田口雅生氏(元ラリーアート社長)、須賀健太郎氏(元ラリーアートマネージャー)、三菱自動車工業株式会社、ならびに関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
(完)
◆【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る
◆「パリダカの三菱」が復活か 東京オートサロン2022で『VISION RALLIART CONCEPT』お披露目
著者プロフィール
中田由彦●広告プランナー、コピーライター
1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。