【モータースポーツ】三菱自動車の魂 RALLIART がラリーに還る日 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【モータースポーツ】三菱自動車の魂 RALLIART がラリーに還る日

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【モータースポーツ】三菱自動車の魂  RALLIART がラリーに還る日
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その日は突然やってきた。


2021年5月11日、私と同じ三菱自動車OBから「今すぐ決算発表を見ろ」とメッセージが入った。三菱自動車の2020年度決算発表の資料を読み進めると、そこには驚きの発表があった。三菱自動車らしさの具現化のため、モータースポーツ活動を通して多くの三菱ファンを創出したブランド「ラリーアートを復活させる」と。


1981年からの三菱自動車のモータースポーツプログラムの呼称となったRALLIART


2021年初頭、私は自身が渡仏し後方業務に加わった1994年の「パリダカール・ラリー(パリ~ダカール~パリ)」(パリダカ)の回想録をSPREAD編集部の依頼に応じ執筆、掲載いただいた。三菱自動車がモータースポーツから離れて久しくもあり、三菱がラリーアートをチーム名に冠して世界のモータースポーツを牽引した時代を読者の記憶に少しでも刻むことができればと引き受けた。


将来への遺産のつもりでの執筆からわずか数ヶ月でのラリーアート復活の発表に驚かないわけがない。執筆依頼をくれたSPREADが、この日が近いことを予見でもしていたかのように感じたほどだった。


◆【パリダカ回想録】第1回 パリダカとパジェロの蜜月


■パリダカで7連覇など黄金期を築く


ラリーアート(RALLIART)は1981年からの三菱自動車のモータースポーツプログラムの呼称であり、1984年にはモータースポーツを通して三菱車の販売促進に貢献する事業会社として設立された。パリダカ(現ダカールラリー)は26回出場のうち、7連覇を含み総合優勝12回、世界ラリー選手権ではランサーエボリューションを駆ったトミ・マキネン選手のドライバーズタイトル4連覇(1996~99)、1998年にはマニュファクチュアラー(製造者)チャンピオンをはじめ、市販車によるグループNまで完全制覇を成し遂げている。もちろんワークス活動ばかりでなく、世界中に張り巡らせたネットワークを通しての各国プライベーターへの積極的サポートも間違いなく他社を大きくリードしていた。


残念ながら、三菱自動車は世界的な経済不況を理由に2009年ダカールラリー(南米での初開催であった)をもってワークスモータースポーツ活動を終了し、翌年にはユーザー支援窓口でもあった株式会社ラリーアートの業務を停止した。だが、商品を鍛える実験場としてのモータースポーツをあきらめない人たちは残った。


MiEVエボリューションIII 提供 三菱自動車工業株式会社


自動車の電動化が急がれる中、世界初の量産電気自動車「i-MiEV」の市販を開始していた三菱自動車は電動車の更なる技術開発のため小規模ながらチームを編成し、アメリカ合衆国で開催されるパイクスピーク・ヒルクライムに2012年からMiEVエボリューションを(2014年電動車クラス1-2フィニッシュ)、2013年からは年1~2戦ではあったがクロスカントリーラリーにアウトランダーPHEVを送り込んだ(アジアクロスカントリーラリー3年連続完走、2015年電気自動車クラス優勝。2014年オーストラレーシアン・サファリ ハイブリッドクラス優勝。2015年バハ・ポルタレグレ完走)。


しかし、そこにスリーダイヤのエンブレムと共に数多の栄光を刻んできたRALLIARTのロゴはなかった※。さまざま理由は考えられるが、かつての活躍を忘れていない多くのファンは三菱自動車のモータースポーツ復帰を喜びつつも「大事な何かが足りない」と感じていたのも事実だろう。もちろん私もその一人だった。


アウトランダーPHEV@バハ 提供 三菱自動車工業株式会社


※著者注:2014年オーストラレーシアン・サファリでの現地出場チームはラリーアート・オーストラリアで車体にRALLIARTのロゴも表示されていたが、三菱自動車は当時のニュースリリースで「オーストラリアのプライベートチーム」という注釈をつけている。既に本国にないラリーアートを名乗る組織と距離を置く意図があったかどうかは不明だが、ファンの心情への配慮がやや欠けていたと思われる。ラリーアート・オーストラリアの創設者ダグ・スチュワート氏(故人)は、1960年代に三菱自動車のオーストラリア輸出に向けた事前調査から後の国際ラリー初出場まで道筋をつけた功労者。オーストラリア国内だけでなく、アジア・パシフィック地域での三菱自動車の参戦ラリーではチーム運営の中核を担い、1988年には篠塚建次郎選手のFIAアジア・パシフィックラリー選手権初代チャンピオン獲得に貢献した。


■モータースポーツに戻るための準備が始まる


ラリーのために大幅なボディ改修まで行ったアウトランダーPHEVで臨んだ2015年のバハ・ポルタレグレののち再び三菱自動車を暗雲が包み、電動車開発の一環としてのモータースポーツ活動は途切れた。厳しさを増す事業環境、そして現在も続く世界的な感染症の拡大は未来を閉ざすには十分すぎるとさえ思えるようになった。


だが、わずかな風向きの変化を感じたのは2021年春。三菱自動車は長らく(申し訳ないが「放置」といっていいほど)手付かずのままにしていたホームページのモータースポーツサイトをリニューアルし、ショールームには2002年のパリダカで増岡浩選手が優勝したパジェロの展示がされた。私にはそれが単なる懐古企画ではなく、いつかは分からないがモータースポーツの世界に戻るための準備が始まったと思えた。


ランサーエボリューション VI 2001 モンテカルロラリー優勝車 撮影・2002 年パリダカ増岡浩優勝報告会/茨城県土浦市)


そして冒頭に戻る。未だ黒字化には遠い内容の決算報告(2021年度は黒字化見込みだが)の中でのラリーアート復活の発表は、驚き以外の何物でもない。不況下においては日本の自動車メーカーが最初に整理するのがモータースポーツという現実の中で、軽自動車から大型トラック・バスまでをラインアップしていた昔とは違い、SUVをメインに限られた車種で生き残りを賭けているスモールメーカーが「逆張り」に出たのだから。


もちろん発表されたのはアクセサリーパーツのブランドとしてのラリーアートの復活であってモータースポーツへの再参戦表明ではない。それについては「関与も検討」と非常に慎重な表現にとどめており、ゆえに単なるブランドのリサイクルに終わってしまうのではないかと危惧する声も確かにある。


だが、私はそうは思わない。単にブランドのリサイクルであればプレスリリース一枚で済むことだ。それをトップ自らが語り、決算発表と合わせて次のフェーズでの業績回復に向けた新たな武器のひとつとしてラリーアートブランドの復活を明らかにしたのだから、その重みは格段に違う。


これは「三菱自動車は新生ラリーアートとともに必ずやラリーフィールドに還る」という決意の表明だと私は固く信じている。そして、その日は決して遠くはないと。


◆【パリダカ回想録】第2回 「私が冒険の扉を示す 開くのは君だ 望むなら連れて行こう」


◆【パリダカ回想録】第3回 華やかなセレモニアル・スタート、そしてパリとの長い長いお別れ


◆【著者プロフィール】中田由彦 記事一覧


著者プロフィール


中田由彦●広告プランナー、コピーライター


1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

《SPREAD》
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