大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える"人との繋がり" | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える"人との繋がり"

スポーツ 選手
大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える
  • 大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える
  • 大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える
  • (c)SIGMAXYZ
  • (c)SIGMAXYZ
  • (c)SIGMAXYZ
  • 大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える
  • 大工からテニスプレイヤーへ…車いすテニス・二條実穂を支える
大工からテニスプレイヤーへ。
思わず聞き返してしまうほど異色な経歴を持つ、車いすテニスプレイヤー・二條実穂。リオパラリンピックでは上地結衣とダブルスを組み、4位に入賞した。彼女はどのようにして車いすテニスと出会ったのか、どのようにしてリオを戦い抜いたのか。彼女の「人生」に迫った。

車いすテニスとの出会いを引き寄せた、真夜中のテレビ


小さい頃から表現することが大好きだった。
中学高校では部活でソフトテニスに打ち込む傍ら、将来は大工になりたいと考えていた。「――家にいることの多い主婦が住みやすい家を、女性目線でつくりたい」。そんな強い志を抱き、建築の世界に足を踏み入れた。

そして、その夢を叶えた建築現場で事故は起きた。足場から落下し、脊髄を損傷。歩いたり走ったり、これまで普通にできていたことができない。日常生活への不安と同時に、「夢だった大工に戻れない。好きだったテニスもできない」という思いが渦巻いた。

入院中に、一泊だけ帰宅が許された夜。なかなか寝付くことができず気晴らしにテレビをつけた時、偶然放送されていたのが車いすテニスの番組だった。それが、車いすテニスに出会った瞬間だった。

「車いすテニスへの期待が、日常生活に戻ることへの不安を上回りました。早く退院してテニスをしたいという気持ちから、退院した5日後にはラケットを握っていましたね」

作り人としてのこだわりが込められた車いす


車いすテニスでは、ボールを打つことと並行して“チェアスキル”が重要だという。その根底にあるのが車いす自体の性能。車いすは一人一人に合わせたフルオーダーで作られ、日常で使用するものよりも細かな調整が必要となる。二條は車いすメーカー・オーエックスエンジニアリングと密に意見交換を行い、自身の車いすを作り上げている。

「オーエックスエンジニアリングの方と意見交換をしながら、できそうな部分は自分でやったりしています。」



プレイヤーにとって “脚”となる車いすには、幼い頃からものづくりに夢中になってきた彼女だからこそ持つこだわりと情熱が注がれている。

「私自身は、『大工をやっていなかったら事故に遭わなかった』という後悔はまったくないです。たくさんの人に迷惑や心配をかけてしまいました。北海道でお世話になった方や、コーチ、会社の仲間、家族や友人、たくさんの人の想いを感じながらパラリンピックを目指していました」

しかし、パラリンピックへの道のりはそう簡単ではなかった。出場権をかけた大事な試合時期、どうしても調子が上がらなかった。「結果を出さなければいけない」。そうわかっているのに、出せない。そんなもどかしさを乗り越えた2016年6月、ついにリオへの切符を手にした。

「出場が決まったあと、1時間くらいは喜びました」

感動や達成感の後にこみ上げてきたのは、緊張と責任だという。パラリンピックという大々的な世界大会への緊張感、日本代表としての責任感が押し寄せた。期待と緊張で臨んだ初のパラリンピック、上地結衣と組んで出場したダブルスは4位に終わった。リオ五輪を振り返り、二條はこう語った。

「パラリンピックは、いつも以上にたくさんの方の気持ちが一球一球にこめられていました。その分、勝った喜びも負けた悔しさもいつも以上でした」

競技を通して出会った多くの人


リオへの長い道のりには、多くの人の支えがあった。そのなかには、地元球団・北海道日本ハムファイターズとの関わりもあった。監督である栗山英樹氏と出会ったのは、パラリンピック出場を目指して奮闘している時。リオへの出場が決まった数日後に再会した時には、一軍選手たちのサインが書かれた日本国旗が渡され、ともにリオの地へ飛んだ。

「栗山監督からは、毎回お会いするたびに私にとってヒントになるような言葉をかけていただいています。そういった言葉をかけていただけていることに本当に感謝しています」



また、二條は岡大海選手の「おかひろみプロジェクト」にも参画している。岡選手が盗塁をひとつ決めるごとに北海道車いすテニス協会に車いす用タイヤセットが寄贈される、社会貢献プロジェクトだ。

「リオでプレーした車いすには、岡選手からいただいたタイヤを使っていました。本当にたくさんの方に支えてもらってプレーしているんだということをとても実感しました」

大工とテニス。一度はすべて諦めかけた。しかしたくさんの人に支えられ、好きだったテニスを続けることができた。

障がいを持ってからがスタートとなる障がい者スポーツは、競技に出会うまでの時間が大切だと二條は語る。

「私は早期に車いすテニスに出会え、不安だった気持ちを明るくしてもらえました。どんなことでもきっかけになると思うので、自分の活動がまだ競技と出会っていない人にとってのきっかけになればいいなと思います」

東京五輪ではリオで叶わなかったメダル獲得を目指す。
今までお世話になった人々の想いとともに、新たな交流の輪を広げながら、メダルという夢を追いかけていく。

■二條実穂(にじょうみほ)
1980年生まれ。北海道出身。大工として働いていた23歳の時に、建築現場の足場から落下し脊髄を損傷、車いす生活に。退院後すぐに始めた車いすテニスで徐々に活躍の場を広げ、現在は数多くの世界大会に出場するプロのプレイヤーとして活動中。2016年リオデジャネイロパラリンピック ダブルス4位。
《山本有莉》
page top