ウクライナ侵攻に見る昭和の大横綱・大鵬、オデッサの土俵入り像 そして日米野球に出場したスパイ選手 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

ウクライナ侵攻に見る昭和の大横綱・大鵬、オデッサの土俵入り像 そして日米野球に出場したスパイ選手

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ウクライナ侵攻に見る昭和の大横綱・大鵬、オデッサの土俵入り像 そして日米野球に出場したスパイ選手
  • ウクライナ侵攻に見る昭和の大横綱・大鵬、オデッサの土俵入り像 そして日米野球に出場したスパイ選手

巨人、大鵬、卵焼き」。

昭和の大横綱・大鵬が活躍した1960年代に私は育った。大鵬は1960年11月の九州場所で初優勝してから1971年5月に引退するまで幕内優勝32回を果たすなど角界に君臨した。一方の巨人は川上哲治が1960年11月に監督に就任、65年からは不朽の巨人軍の日本シリーズ9連覇が始まる。大鵬も巨人も、卵焼きも好きだったから日本の高度成長、「昭和元禄」の恩恵をしっかり受けて育ったようだ。

◆「昭和は遠くになりにけり」、昭和の大横綱・大鵬、逝く

1961年10月2日に大鵬が横綱昇進を果たす 撮影:たまさぶろ

■ロシアによるウクライナ侵攻後に強調される大鵬の出自

NHKの大相撲中継で目にする大鵬は圧倒的に強かった。

強い大鵬を一緒にテレビで観戦していた祖父が「大鵬が日本人離れした強さを見せるのはロシア人の血を引いているからだ」と説明してくれたのを覚えている。

ロシアに対する正しい知識を持ち合わせないながらも、日本のプロ野球の黎明期の投手で303勝を挙げたヴィクトル・スタルヒン投手もロシア出身。加えて、オリンピックでロシア(当時はソビエト連邦)出身の選手たちが陸上競技や体操などで圧倒的な強さを見せるのを見て「ロシアの血を引いている人はみな、運動神経がいいんだ」と子供心に勝手に解釈していた。

プロ野球界初の300勝を達成したヴィクトル・スタルヒン 写真:パブリック・ドメイン

大鵬がロシア革命後、ソビエト政権を受け入れず祖国を去った白系ロシア人の血を引いていることはこれまでにも何度か報道されてきた。2021年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻後は大鵬の出自について、新たな事実が強調されるようになった。

大鵬の父親がウクライナ出身の元コサック騎兵将校、マルキャン・ボリシコで、大鵬がウクライナの血を引いていることだ。

コサックはロシア皇帝(ツァーリ)の忠実な軍事力として、農民の反乱や社会主義運動などを弾圧する反革命勢力の中心を担った。ロシア革命でロマノフ王朝が倒れた後のソビエト政権と反革命軍が戦った内戦では革命軍の赤軍に対して戦う白軍(反革命軍)の主力となっていた。

ボリシコはロシア革命後に日本に亡命し、日本人を娶り、大鵬は南樺太の敷香町(しすかちょう/サハリン州ポロナイスク)で1940年に生まれた。

在日ウクライナ大使館のホームページによると、父親はウクライナのロシア国境に近いハルキウの出身で大鵬には出生時、イヴァーン(日本名は幸喜)との名前が付けられた。1945年のソ連による樺太侵攻後、父親が逮捕されたため、大鵬は母親と共に北海道へ避難。以後、父親と会うことは二度となかったという。

現役時代は自らの出自について多くを語らなかった大鵬も晩年には、父親の出身地であるウクライナへの望郷の思いが募り、02年にウクライナを訪れ、ハルキウ州にある父親の村を訪れている。

州都ハルキウ市では地元の相撲愛好家が開催する相撲大会も訪れた。同相撲大会は「大鵬幸喜大会」と名付けられ、毎年開催されているという。

大鵬は11年5月、ウクライナ政府からメリット勲章3位(友好勲章)を授与された。22年4月11日付の「日刊スポーツ」によると、同国政府から招待を受け、家族でのウクライナ旅行も検討したが闘病中のために断念したという。

11年にはウクライナの南部、黒海に面するオデッサ市に「ウクライナ系の著名横綱」ということで大鵬の銅像が建立された。在日ウクライナ大使館は21年6月3日、銅像が設置されていることをTwitterで発信している。

◆【実際の画像】ウクライナのオデッサに建立された大鵬の銅像

また、東京の在日ウクライナ大使館には大鵬の肖像写真が飾ってあり、同大使館を訪れる日本の要人が大鵬の肖像写真と記念撮影することが習わしとなっている。

■ウクライナの血を引く野球選手 実はスパイ

昭和の大横綱大鵬とウクライナとの浅からぬ縁を聞き、ウクライナをより身近に感じる。苦境にあるウクライナに何とかして手を差し伸べたいと思う。

犠牲者を弔うウクライナ兵 (C) Getty Images

しかし、スポーツを通したウクライナと日本の関わりも綺麗事ばかりではない。時に時代を反映して闇の部分が照らし出される。

1934年11月、読売新聞の主催で日米野球が開催されることになり、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグを擁する米大リーグ選抜チームが来日する。当時、日本にはプロ野球チームがなかったので東京六大学野球で活躍したスター選手や中等野球出身の沢村栄治などからなる「全日本軍」を急遽編成し臨むが、全国12都市で16試合を行い、日本チームは全敗する。それでも日本の野球熱は大いに盛り上がり、同年12月26日には、日本初のプロチーム、現在の読売ジャイアンツの前身となる「大日本東京野球倶楽部」が創立される。

ベーブ・ルースらスター選手に注目が集まる中、控えのキャッチャーとして来日したモー・バーグには誰一人、注意を払わなかった。

ベーブ・ルースらと共に来日したモー・バーグはスパイだった (C) Getty Images

ウクライナ出身の両親を持つバーグはユダヤ人で、プリンストン大学卒でコロンビア大学法科大学院を修了していた。7つの言語を習得していたというから、明らかに野球選手らしからぬ経歴の持ち主だった。日本の憲兵隊も何か気づいてもよさそうなものだが来日時は特に問題にされなかった。

日本滞在中、バーグは駐日米大使ジョセフ・グルーの四女エリザベスが、聖路加病院で出産したことを聞きつけると出産見舞いと称して同病院を訪ね、屋上から隠し持った16ミリカメラで東京湾内の軍艦、兵器工場、皇居など東京一円を撮影した。撮影された映像は、1942年4月18日のジミー・ドーリットル中佐による東京初空襲の際の資料として使われた。

ベーブ・ルース人気を隠れみのにバーグはスパイとしての任務を着実に果たしたのだ。野球選手引退後は戦略諜報局(OSS)や後身の中央情報局(CIA)などの機関員だったのだから、日米野球来日時点で野球選手は表向きの顔に過ぎなかったのだろう。2018年にはバーグの伝記をもとにした映画『ザ・キャッチャー・ワズ・ア・スパイ』も公開されている。

同じウクライナ人の親の血を引きながら、かたや大横綱となり日本人のヒーローとなった大鵬と、スパイとして東京初空襲のお膳立てし、その後も闇の世界に生き続けたバーグ、二人の生き方はあまりに対照的だ。

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著者プロフィール

本田路晴(ほんだ・みちはる)●フリーランス・ジャーナリスト

読売新聞特派員として1997年8月から2002年7月までカンボジア・プノンペンとインドネシア・ジャカルタに駐在。その後もラオス、シンガポール、ベトナムで暮らす。東南アジア滞在歴は足掛け10年。趣味は史跡巡り。

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