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ひょっとしたら、この人のひと声で篠塚建次郎さんの進む道が変わっていたかもしれない。常日頃から「モータースポーツは人の輪、和」という持論を説いていた人物だ。
◆篠塚建次郎さん、自動車殿堂入り 前編 「50年以上ラリーを続けてよかった」
■ダカール・ラリーでついに日本人として初優勝
「ケンジローと初めて会ったのはコルトギャランが出る少し前だった。最初は重りがわりにラリーカーに乗っていたようなもの。実は体形がフォーミュラー向きだったからレースをやらせようと考えたこともあった」。
三菱自動車のモータースポーツを黎明期から率いた、コルトモータースポーツクラブ(CMSC)初代会長の外川一雄さんが生前そう明かしてくれたことがある。
1960年代なかばから70年代初頭、トヨタ、日産が大排気量スポーツカーでしのぎを削る中、三菱のモータースポーツは国際潮流に足並みをそろえるようにフォーミュラー・レーシング路線を主流としていたので、もしラリー路線への転換がなければ篠塚建次郎と中嶋悟、あるいは星野一義とのサーキットでの対決、いや「コルトF1」での世界への挑戦が実現していたのかもしれない。
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コルトF2000(手前) 写真提供:平賀一洋
パリダカをメインにWRCなどスプリントラリーにもスポット出場しつつ実績を積み上げていた篠塚さんに大きな転機が訪れたのは1997年のことだ。
この年ダカールスタート、ダカールゴールという変則開催となったダカール・ラリーでついに日本人として初優勝を遂げる。それを見届けるように篠塚さんを再びラリーへと導いたラリーアート社長・近藤昭さんが病との闘いの末、不帰の客となる。篠塚さんだけでなく、当時三菱でのモータースポーツに関わる全ての者にとって恩人と言ってよい人物だった。
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1997年「ダカール」で初優勝 写真提供: 篠塚ひろ子
「私はね、自分の次のラリーアートの社長はケンジローにやってもらいたいと思っているんだ」。
私のような組織の末端の者にさえ、自身の構想を隠さず話してくれていたのが近藤さんだった。今にして思えば、ラリーアートという事業子会社を、本体組織(三菱自動車)の予算に依存しない安定した収益確保のできる経営体制としていったのも、いつか篠塚さんにラリーアートを、三菱自動車のモータースポーツをまかせる日を見据えてのことだったのかもしれない。
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篠塚さんの戦績を記しラリーアートが販売したコート
そして同年のWRCラリーオーストラリア。ランサーエボリューションで出場した篠塚さんは、スタートから3日目に体調不良でリタイアする。
三菱ランサーディーラーチームのメカニックとしてサービスにあたった志賀雅彦さん(現・三重三菱自動車取締役四日市新正店長)によると初日・2日目ともに不調は感じられなかったそうだが、大恩人を失ったことも心の底にあったとは、考えすぎだろうか。
これを最後に篠塚さんは、ダカールラリーなどパジェロでのクロスカントリーラリーに専念することになる。
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1997年、WRCオーストラリアでの篠塚さん 写真提供:志賀雅彦
1998年のパリダカも総合2位を獲得し、パリダカに傾注できるよう欧州三菱駐在となった篠塚さんだが若干戦績の上下動が見られるようになる。三菱は指導者への道を用意するが篠塚さんの現役続行の意思は固く、サラリーマンドライバーとしての生活に終止符を打ちプロドライバーの道へと進む。篠塚さんは、今日74歳を迎える。
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日産フランスからダカールラリー出場 写真提供:篠塚建次郎
「74歳となり目標にした『古希から喜寿へ』の折り返し点を迎えましたが、まだまだサハラを走りたいと思っていろいろ計画をしていますので応援よろしくお願いします」。
篠塚建次郎。
まだまだ砂煙の向こうのゴールを目指すアクセルを緩めることはなさそうだ。
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篠塚さんが「ペンションの親父」を務める清里ラ・ヴェルデューラに飾られた記念品の一部
◆プロローグ:世界一過酷なモーターレース「パリダカールラリー」を振り返る
◆【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る
◆AXCRで復活の三菱・増岡浩総監督が語る地球との戦い「それがラリーだ」 前編
著者プロフィール
中田由彦●広告プランナー、コピーライター
1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。