【スポーツビジネスを読む】ラグビー新リーグで世界一のクラブを目指す 静岡ブルーレヴズ山谷拓志代表取締役社長 前編 シーガルズで学んだ日本一の組織作り | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【スポーツビジネスを読む】ラグビー新リーグで世界一のクラブを目指す 静岡ブルーレヴズ山谷拓志代表取締役社長 前編 シーガルズで学んだ日本一の組織作り

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【スポーツビジネスを読む】ラグビー新リーグで世界一のクラブを目指す 静岡ブルーレヴズ山谷拓志代表取締役社長 前編 シーガルズで学んだ日本一の組織作り
  • 【スポーツビジネスを読む】ラグビー新リーグで世界一のクラブを目指す 静岡ブルーレヴズ山谷拓志代表取締役社長 前編 シーガルズで学んだ日本一の組織作り

山谷さんの名を初めて耳にしたのは「リクルート・シーガルズ」の知人からだった。「後輩が地方のバスケットボール・チームの経営を始めたので、助けてやってくれないか」と。当時、私は各種スポーツ協会のソリューションを手助けしたり、スポンサー・フォローをこなす立場ではあったものの、お会いしたこともない方に、のこのこと声をかけに行くのは、いかがなものかと考えた。

しかし、その「地方のバスケチーム」は、あれよあれよ、2010年に日本バスケットボールリーグ(当時)で優勝、日本一に上り詰めた。つまるところ、余計な助け舟など必要なかった。

栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)代表取締役社長として名高かった山谷拓志さんと初めて挨拶できたのは、茨城ロボッツのトップとしてだった。その後、B2だったロボッツに密かに声援を送っていたところ、20-21年シーズンにB1昇格を決めた。そもそもブレックスを日本バスケットボールリーグ(旧JBL)優勝に導いただけの人物、「さすがだ」とただ感心していると、今度はラグビー新リーグ再編に向け、静岡ブルーレヴズ(元ヤマハ発動機ジュビロ)を牽引するというニュースが届いた。

もともとアメリカン・フットボールの学生日本代表でもあった山谷さんが、なぜバスケ、ラグビーとトップとしての遍歴を持つに至ったのか……。ここで改めて訊ねてみようと、静岡県磐田市へと向かった。

初めて降り立ったJR磐田駅のロータリーには、ファーストフード店ひとつなく、サッカーとラグビー、2つの「ジュビロ」のホームタウンとしては、あまりにも小ぢんまりしており、、少々面喰らった。

駅からほどない静岡ブルーレヴズの事務所にたどりつくと、書類ひとつ積まれていないまっさらな白い真新しいデスクが整然と並ならび、新生ラグビーチームのスタートを感じさせた。

山谷拓志(やまや・たかし)

●静岡ブルーレヴズ代表取締役社長

1970年6月、東京都出身。慶応大学アメリカンフットボール部にて学生日本代表、バイスキャプテンを務める。93年4月、リクルート入社。営業職など歴任しつつ、リクルート・シーガルズの選手としても96、98年とライスボウル優勝。2005年に株式会社リンクアンドモチベーションに入社。07年に宇都宮ブレックス(当時)設立、代表取締役に就任。3年目に日本バスケットボールリーグを制覇。一般社団法人日本バスケットボールリーグ専務理事を経て、2014年から茨城ロボッツの経営再建に従事。21年にBリーグ2部準優勝を達成しBリーグ1部昇格を果たす。7月、ラグビー新リーグDiv1に参入が決定した「静岡ブルーレヴズ」代表取締役社長に。

◆【インタビュー後編】経営者として常勝を支える理念とは……

■「求人情報誌の営業」としてリクルート入社

山谷さんは高校、大学とアメフトに注力、新入社員としてリクルートに入社。もちろん、アメフトをプレーするためだったのだろうと訊ねると「大学では日本一の直前で終わったせいもあってか、アメフトを続けるつもりはなかったんです」と意外な言葉が戻って来た。

「実は営業が面白かったんです。アルバイトで物を売る仕事に味を締めてしまいまして……。まだバブルの余韻が残っていた時代のせいか、催事場で高級おせち料理や、1万円もするバレンタインのチョコレートを販売したり……」、そのため営業志望だったという。

リクルートとしてはアメフト経験者ということで、チームの配属なども含めた打算があったかもしれない。しかし、山谷さんとしては「求人情報誌の営業」として1993年に同社入社、希望通りに配属された。この際、同社の人事担当に、後に株式会社リンクアンドモチベーションを創業する小笹芳央さんがいた点、山谷さんのキャリアにとって大きな縁だったろう。

リクルート・シーガルズを日本一に導いた頃の山谷さん

バブル崩壊直後、求人情報誌は下り坂ではあったが、山谷さんは営業にバリバリと音を立てて精を出した。ただ時を同じくし、シーガルズが2部から1部に昇格、日本一を目指し、日本代表レベルの学生を積極的にリクルーティングし始めていた。山谷さんも慶應大学在籍時はオールスターメンバー入り、副主将まで務めた経歴の持ち主。

「結局、チームを強くして行く過程でプレーできることは貴重な経験、そこで働く環境もいいか」と考え、プレーヤーとして復帰を決断。月曜日から金曜日までは営業に全力注入。シーズン中はアメフトと営業ノルマをこなす日々となった。

入社4年目、アメフトが「Xリーグ」へと再編されたファースト・シーズンとなった96年、シーガルズは優勝、そのまま翌年日本一に輝いた。98年も優勝、99年に2度目の日本一に。こうした優勝の喜びもひとしおだったが「この経験から日本一の組織作りを学びました」という点、山谷さんにとってはもっとも大きな財産となった。

この頃、山谷さんにとって様々な契機が折り重なった。まずは97年、サッカー日本代表フランスW杯出場を決めた。サッカーの異様な盛り上がりに「アメフトはどうすればいいのか」と大きな問題意識を抱えるようになった。リクルートは30歳から退職金が支給されるため、もともと「30歳になったら会社辞める」と心に決めていた。またケガもあり、現役引退を決意。そして、何よりも日本には実業団スポーツ再編の波が迫っていた。

いすゞ自動車は、名門とさえ言えるバスケットボール部、野球部ともに活動休止を発表、2002年に活動を終了した。日本リーグ6連覇、シーズン88連勝、日本代表の核となっていた日立バレーボール部も2001年に終了。その波はアメフトにも及び、シーガルズも2度目の優勝を果たした直後に、3年の移行期間が設けられたものの、リクルートが運営から退くことが決定となった。

■独立法人化したシーガルズと契約

山谷さんはここでリクルートを退社。チームにはコーチとして携わる傍ら、独立法人化したシーガルズと営業責任者として契約し、スポンサー獲得に動くことになった。当時、山口県にあったユニクロの本社に飛び込みで営業し、玉塚元一さん(現・ロッテホールディングス代表取締役社長)へのセールスを図ったり、旭化成に売り込んだりと精力的に動く。

一方、「スポーツをビジネスにするのは、どうすればいいのか」とも考え、故・広瀬一郎さんの著作などを読み漁り、またスポーツ分野の専門家を訊ねるなど「壁打ち」を繰り広げたという。

チームロゴとエンブレムを発表する山谷拓志さん (C)静岡ブルーレヴズ

こうした活動が実り2003年には「オービック・シーガルズ」とチームに冠スポンサーを戴く結果となる。こうしてシーガルズの活動が落ち着いた頃、リクルート時代の人事担当、前述の小笹さんが2000年に設立した新会社「リンクアンドモチベーション」に転職。同社は「モチベーション」をテーマとした経営コンサルティング会社。山谷さんは2005年にスポーツマネジメント事業部長として招聘された。これが山谷さんの「スポーツビジネス」への関与がより深まる契機となるのだから、キャリアの流れとは興味深い。

同社が持つ研修プログラムをスポーツチーム向けにアレンジ、各チームへの営業をスタートさせた。コーチ向けのコミュニケーション研修、プレーヤー向けのモチベーションコントロール研修、さらにセカンドキャリアデザイン研修などこうした具体的な商材を元に、各チームへと出向くことに

2005年には、神戸製鋼サントリーコカ・コーラ・ウエストなどと契約、チームビルディングなどについてサポート。ヤマハ発動機からも声がかかり静岡県嬬恋で選手向けのリーダーシップ研修を実施。。さらに選手のリクルーティング用パンフレットの制作も担当した。これが2021年への布石となろうとは当時、想像もしなかった

2007年、「大塚商会アルファーズ」を母体とし、そのライセンス譲渡を受けプロバスケットボールチーム「栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)」が設立された。(その後、同名チームは、関東実業団で第2期の活動を再スタート。現在、越谷アルファーズとして活動中)。

同年にリンクアンドモチベーションとしてスポンサー契約を締結。当時コンサルタントを務めていた山谷さんに白羽の矢が立ち、そのままチームの代表取締役社長に就任となった。

ここから山谷さんは経営者として表舞台に立ち、ご存知お通りの大車輪の活躍となる。

栃木ブレックスは、07-08シーズンJBL2の初代王者となり、1部に昇格。山谷さんはGMも兼務し、08年には日本代表・川村卓也、元NBAフェニックス・サンズ田臥勇太を獲得とその手腕を発揮。設立3年目となる09-10シーズンに初優勝を成し遂げた。

インタビューを受ける山谷拓志さん(写真:編集部)

13年6月、NBL(日本バスケットボールリーグ)専務理事COO就任のため、山谷さんはチームを離れるが、ブレックスは日本バスケ界再編で誕生したBリーグでも初代チャンピオンに。山谷さんは14年11月、経営破綻した現・茨城ロボッツの再建のため、NBLから同チームの社長に。21年にロボッツのB1昇格を実現すると、この7月、ラグビー新リーグに参入する「静岡ブルーレヴズ(旧・ヤマハ発動機ジュビロ)」の社長に就任した。

アメフトからバスケ、そしてまたラグビーへの転進……、後編ではこの経緯を訊ねる。

◆【インタビュー後編】経営者として常勝を支える理念とは……

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著者プロフィール

松永裕司●Stats Perform Vice President

NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 東京マラソン事務局広報ディレクター/ Microsoft毎日新聞の協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Directorなどを歴任。出版社、ラジオ、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験を持つ。1990年代をニューヨークで2000年代初頭をアトランタで過ごし帰国。Forbes Official Columnist

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