球速120キロ→145キロに挑戦、近鉄のトライアウトで挫折 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

球速120キロ→145キロに挑戦、近鉄のトライアウトで挫折

スポーツ まとめ
大学野球 参考画像(日大のシートノック)
  • 大学野球 参考画像(日大のシートノック)
「生まれた欲求と挫折。そして挑戦」

大学4年生となり、再び進路の選択が迫られる時期となりました。他の同級生たちはほぼ例外なく就職を選択していく一方、相原さんの中にある欲求が生まれます。

「軟式とはいえ、結果も出したし(プロに)行けるんじゃないか?」

そこからの行動は早いものでした。自身のこれまでの成績や投球スタイルを細かく載せた履歴書をプロ12球団に送付するなど、積極的に売り込んだ結果、唯一、近鉄バファローズ(当時)から連絡をもらう事に成功します。

「ダメ元で送ったので、やったと思いました。」

 近鉄スカウトからの連絡はドラフト当落線上の選手達を一同に集めたトライアウト参加を呼び掛けるもの。二つ返事で当時、近鉄の本拠地だった藤井寺球場へと向かいました。会場には周りにはテレビで見たこともある選手の姿もちらほら「自分も大学では硬式の練習も続けていたので、密かに期待は持っていましたが…」ブルペンで投げ込むライバル達の球ははるか想像を超えるものでした。

 軟式球と硬式球、わずか10グラムの差ですが、すっかり軟式になじんでいた相原さんにとってはリリースポイントや力の入れ方など、あらゆる場面で大きな壁となって立ちはだかりました。結果は当然、不合格。

「自分の力の無さを痛感しました。軟式でつけた鼻をへし折られましたね」

 最終的に大学卒業後の進路を関東銀行(現つくば銀行)に決めた相原さん、仕事上、土日が休みだった事もあり、大学で知り合った石崎トレーナーが運営する「倶楽部メインズ」という主に首都圏で活動するクラブチームで週末を中心に野球を続けることになります。

 倶楽部メインズは天皇杯や国体にも出場する強豪チーム。その為、平日に大会もあることもしばしばで、「休暇願を出す度に支店長から『お前の本業はなんなんだ』と怒られました(笑)」と当時を振り返ります。その頃の生活スタイルは朝8時から21時、22時頃まで銀行に勤務したのち、夕食を慌ただしく掻き込んで石崎さんのジムでトレーニングを重ね、週末はクラブの練習というもの。そこまでハードな日々を支えた原動力を次のように語ります。

「メインズでやりながらも、プロを考えていました。やっぱり簡単には諦めきれませんでした。もちろん硬式の練習もしていました。この頃はトレーニングの成果もあり、体も大きくなりました。身長174センチで75キロぐらい。まだ腕の可動域を広げる事と、柔軟性を鍛えていたので、一日2試合250~260球投げる事もありました」

 パフォーマンスの向上を実感する一方で2足のわらじをはきながら野球を続ける厳しさに徐々に不安と疑問を感じはじめたある日、新聞である記事を目にします。「四国アイランドリーグ発足!プロの育成機関も兼ねる」相原さんの新たな道が開けた瞬間でした。

(取材:小笠原大介)


「球速120キロから145キロを実現した相原雅也氏のストーリー4」へつづく


■相原雅也氏 プロフィール
1980年茨城県取手市生まれ 小学校3年で野球を始める。藤代高校に投手転向。中央学院大学軟式野球部ではエースとして東日本大会連覇。2005年四国アイランドリーグ、高知ファイティングドッグスに入団し、11勝。06年には17勝を挙げて最多勝利。2007年に社会人新日鐵住金かずさマジックに入団。主に中継ぎ、抑えとして登板し2008年に現役引退。現在は是吉興業株式会社 販売事業部のマネージャーと傍ら、怪我をしない投球フォームを伝授する「スローイングクリニック」を主宰する。

(原題:球速120キロから145キロを実現した相原雅也氏のストーリー3)
記事提供:Timely! WEB

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