【THE INSIDE】都市対抗野球…日本の産業発展とともに歩んだ歴史(前篇) | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE INSIDE】都市対抗野球…日本の産業発展とともに歩んだ歴史(前篇)

オピニオン コラム
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都市対抗野球の発端は、当時大人気だった春と秋の六大学野球のリーグ戦の間の夏に大会を作ることはできないものか、というところから始まっていた。

早稲田出身の橋戸信と、慶應出身の小野三千麿が、いずれも東京日日新聞(現毎日新聞)記者となっており、そのふたりの発想から始まった。そういう意味では、野球の発展とメディアの存在の関係の中で、まさに当時の新聞記者からの提案で始まった都市対抗野球。いわば、日本の野球文化発展史において、メディア主導の典型的な形で成り立っていったといっても過言ではあるまい。



■アマチュア球界の最高峰"真夏の球宴"

実業団や倶楽部のチームを都市の代表チームを神宮球場に集めて、1927(昭和2)年8月3日に第1回都市対抗野球が開催された。こうして始まったアマチュア球界の最高峰となっていく"真夏の球宴"都市対抗野球は2015年で第86回大会となる。1942年の第16回大会後に、太平洋戦争の戦況の悪化で3年間の中断を余儀なくされた。しかし、終戦の翌年1946年には、16チームが参加して復活している。

以降は、日本の高度成長とともに、代表チームも様々な彩りを添えながら、変化してきている。その代表チームの企業名を見ていくだけで、まさに昭和から平成の時代の流れを見ているようでもある。時代の発展や産業界の変化とともに歩んできたといってもいいであろう。

戦前は、六大学など大学野球出身者が多く集まっていた東京倶楽部、全大阪などのクラブチームと鉄道局が主体となっていた。鉄道局は、今日のJRの前身ともいえるものだが、門司鉄道局(JR九州)、名古屋鉄道局(JR東海)、仙台鉄道局(JR東日本東北)などは第1回大会からの出場である。これに八幡製鉄(その後の新日鉄八幡)や藤倉電線といった、その後の日本の産業を支えることになる鉄と電機の企業が加わってきた。九州では春と秋に行われた八幡製鉄と門司鉄道局との"製門定期戦"は北九州の早慶戦とも呼ばれて、地元の人気カードとなっていた。

また、戦前で特筆すべきは満州勢に代表される日本の領地下にあった大陸のチームだ。満州の大連実業と満州鉄道倶楽部の試合"実満戦"は、満州の早慶戦と呼ばれたくらいに人気があった。こうして、各地に早慶戦に匹敵する人気試合を作り上げていったのも、野球文化を普及させた社会人野球の大事な要素となった。



■土木建設系、鉄鋼系、電電勢などが活躍

戦後になると、岐阜市の大日本土木に東京都の熊谷組といった土木建設系企業が、八幡製鉄や日鉄二瀬、富士鉄釜石(その後新日鉄釜石)など鉄鋼系とともに躍進してきた。これらは、復興を進める日本にとって欠かせない企業でもあった。さらに、静岡では大昭和製紙が活躍していたが、川崎コロムビアとともに、文化産業的な匂いを感じさせる企業も登場し始めた。

そして、1960年代以降は、横浜市の日本石油が強豪として躍進し、日本鋼管とともに"浜の早慶戦"として両者の対決は本大会並みに注目された。この頃から電電公社の各チームが躍進し始める。1965年の第36回大会では電電チームだけでも近畿、東京、中国、東北、北陸と全国から5チームが出場し、電電近畿が優勝も果たしている。さらには1969年と1975年には電電関東が優勝するなど、1960年代から1970年代は電電勢が全盛を誇った。

また、三菱自動車、トヨタ自動車、日産自動車、富士重工業、本田技研などの自動車産業と西濃運輸や日本通運などの運送運輸業系も活躍。京都の日本新薬やデュプロ印刷、大阪の日本生命、東京の明治生命(現明治安田生命)といった生保系や、神戸の小西酒造に浜松市の河合楽器や日本楽器など、確実に産業の発展を感じさせる顔ぶれがそろっていた。



■異色だったプリンスホテルの登場

やがて電電公社が日本電信電話会社となった1985年には、NTT四国、九州、中国、東京、東海、信越と6チームが出場。NTT大会の様相を呈するくらいだったが、図らずも今日の携帯電話の前身ともいえるショルダーホンが開発されて、通信機器が新時代を迎えつつある時代でもあった。ほぼ時を同じくして国鉄が民営化されて、各地の鉄道局はJRと形を変えていっていた。

また、富士製鉄と八幡製鉄が合併して新日本製鉄となり、大会は新日鉄勢とNTT勢が目立った存在となっていた。これらに自動車系各社や三菱グループに東芝や日本生命といった大企業が目立っていた。北海道拓殖銀行や四国銀行などの金融系も多く、日本の産業発展を象徴する形で参加してきていた。異色だったのは、1983年に初出場を果たすプリンスホテルだ。母体は西武鉄道グループで国土計画を背景として、プロ野球の西武ライオンズも誕生させていた。プロアマ両方で、チームを設立していって、野球界に新たな刺激を与えていた。

折しも、舞台は1987(昭和62)年の大会を最後に、後楽園球場から東京ドームへ移っていった。後楽園最後となった第58回大会は創業100周年を迎えて、日本楽器から企業名変更した静岡県浜松市のヤマハだった。強力打線を看板としていた神奈川県川崎市の東芝を封じこんでの優勝ということになった。ちなみにこの年のベスト4は、他にNTT名古屋とプリンスホテルという顔ぶれ。後楽園からドームへ、都市対抗野球新時代への架け橋となっていったことを象徴するかのようでもあった。
《手束仁》

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