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オーストラリアとニュージーランドで開催された『FIFA女子ワールドカップ2023』は8月20日に幕を閉じたが、問題視されたのが授賞式での一コマ。スペインサッカー連盟(RFEF)のルイス・ルビアレス会長が優勝したスペイン代表MFジェニファー・エルモソの唇にキスをするという“事件”が勃発した。
自らの立場を利用したルビアレス会長の行為は「権力の乱用」と問題視されており、政府や国連が動き出すなど一大スキャンダルとして報じられ、波紋が広がっている。
この問題について、長年スペインで選手の育成に携わり、ハラスメント被害者が教え子だというビジャレアルCFの佐伯夕利子さんが自身のブログで持論を展開。以下、佐伯さんの許諾を得て「佐伯夕利子オフィシャルブログ PUERTA CERO 〜この世にたったひとつのとっておきの私の道〜」からの転載とした。
◆なぜスペインには圧倒的なFWが生まれないのか 佐伯夕利子さん・前編 「意思決定」のプロセス
■名誉を傷つける重大問題として懸念
世間をお騒がせしているスペインFA会長による「合意なきキス」事件。ハラスメント被害者は私の教え子。
書けないことが多いけど、書き留めておきたい案件。
前代未聞のこのスキャンダルは、スポーツ庁長官、文化スポーツ大臣、首相が緊急会見を開くなど政府も乗り出した。
インドで開催されていたG20文化相会合でも話題に上るなど、国の名誉を傷つける重大問題として懸念された。ついには国連までもが言及する事態に。
RTVE(スペイン公共放送)はじめ各局は、全番組を切り替え速報、生中継で何時間にも渡って報道し続けた。
スペインスポーツ界を支えるスポンサー企業も次々にリリースを発表。
アスリート、文化人、芸能界といった影響力絶大な著名人たちも「いかなるハラスメントも断固許さない」と、次々に意思表明を行った。
臨時総会終了直後には、女子委員会委員長が「この事態を受け入れられない」とし辞任。
その後、多少出遅れてではあったが、スペイン女子各代表コーチ陣11名が辞任。
いずれも、そのスピード感はじめ確固たる姿勢と意志表明は立派だった。
「合意なきキス事件」は、
①ハラスメント行為②最高責任者による組織の私物化③協会のガバナンス機能不全
といった多岐に渡る問題を浮き彫りにしながら、いまも国内で激しい議論が続いている。
■スペイン人の的確な「正義の表現」
いずれにしても、「いかなるハラスメントも絶対にダメなんだ」という当然のことが、国民の間で再確認されたこと。
スポーツ界における健全なガバナンスの重要性が認識し直されたこと。
権威主義で成り立っている組織は基盤が脆く、崩壊するときはあっという間であることなど、得られた気付きは少なくない。
私は、スペイン人の「正義の使い方の的確さ」が大好きだ。
今回のスキャンダルにおいても、彼らの「正義の表現方法」とスピード感やタイミング、それらの的確さに改めて感心した。
「正」「義」「徳」「善」「倫」・・その正体が何なのかはっきりとは分からないけれど、スペイン人の「もの申す市民力」には心から敬服する。
「いけないものはいけないんだよ!」と立ち上がる市民力。
人権を重んじる倫理観と正義感。
道端に平気でごみを捨てたり、公衆トイレを綺麗に使えなかったり、列をなし順番を守ることが苦手なスペイン人の社会性にがっかりすることも多々あるけれど、「民度とは一体何なのか?」そんなことを一から考えさせられた。
他者の心の機微に寄り添う。手を差し伸べる。弱者を守る。
こういうことが「普通にできる人間」でありたいと、改めてそう思った。
■スペインに根付く「消極的不正」という概念
「なぜスペインの人たちはきちんと声をあげるのか?」の問いに、友人は、「西語:Quien calla otorga(英語:Silence gives consent)だからでしょ?」と、逆に驚いた表情で「何を言ってるの?」という感じで即答してくれた。
Quien calla otorgaは、日本語にすると「消極的不正」という概念に通ずる。
そう、「消極的不正」という概念が、スペインではしっかりと根付いているのだ。
スペインの人たちは、おそらく小さい頃から、そのように学習しているのだろう。
(『従順さのどこがいけないのか (ちくまプリマー新書)』(将基面貴巳 著)より)
【二つの不正】
①積極的不正:ある個人が、人々になんらかの危害を加えること。
②消極的不正:ある個人が危害を加えられている際に、その人を守ったり救ったりすることができるにもかかわらず、そうしないこと。不正が進行しているのを知りながら、その不正に対して反対の声を上げたり、責任を追及したりしないのであれば、その不正に自分も間接的に加担していることを意味する。つまり、不正を目にしていながら、黙っていることは共犯行為である、ということ。
■スペインスポーツ界が進化するために
この「合意なきキス」被害を受けた選手やご家族の心中を察するといたたまれない。
しかし同時に、彼女がこうしてきちんと声を上げ被害を訴えることで、この国のスポーツ界の腐敗を健全化するきっかけになってくれたことを誇らしくも感じている。
「サッカーだけでなく、多くの競技団体の腐敗ぶりは誰もが知るところ。これをきっかけにスポーツ法を再整備し、スポーツ界が健全な体質へと一掃されることを求める!」と訴えるアスリート。
また、「スペインサッカー界の一挙手一投足が世界に及ぼす影響力は、スペイン政府のそれよりも絶大であることを今一度サッカー界が自覚するべきである!」と言い切るジャーナリストの言葉は、この国のスポーツ(サッカー)の力や重要性を一言で表している。
大きな岐路に立たされたスペインスポーツ界。
市民の「ハラスメントに対するリテラシー」と「社会的価値観」を試されたこの一件。すでにもう時代と共に社会の「論理的羅針盤」が変わっている事実が明らかにもなった。
スペインはいま、前代未聞のスキャンダルをきっかけに、健全で豊かなスポーツ界の再構築にむけ、スポーツ界が大きく進化するチャンスを迎えている。
◆なぜスペインには圧倒的なFWが生まれないのか 佐伯夕利子さん・後編 「フィニッシュは他者が決めない」
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著者プロフィール
佐伯夕利子(さえき・ゆりこ)●ビジャレアルCF、Jリーグ元常勤理事、WEリーグ元理事
スペインサッカー協会ナショナルライセンス。UEFA Proライセンス。03年スペイン男子3部リーグの監督就任。04年アトレティコ・マドリード女子監督、育成副部長。07年バレンシアCF強化執行部に移籍、国王杯優勝。08年ビジャレアルCFと契約、U19やレディース監督を歴任。18〜22年Jリーグ特任理事、常勤理事。著書に『教えないスキル 〜ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術〜』(小学館)。