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日本シリーズの試合はすべてテレビ観戦をしたのだが、映像で確認できず報道で知ったことがある。プレーそのものではない。
第4戦で打球をはじいた東京ヤクルト・スワローズの遊撃手長岡秀樹が先発投手石川雅規に対して「帽子をとってわびる」と報道されている。このことが私はきになった。彼はクライマックスシリーズでもサイスニードに対してやはり帽子を取ってボールを手渡しにマウンドに向かっている。帽子を取ることは日本で野球を始めた人なら挨拶や謝罪をするときに習慣的にする動作ではあり、気持ちはよくわかるが、試合中にするべきかどうかは疑問が残る。
◆【実際の映像】オリックス vs. ヤクルトの日本シリーズを振り返る
■日米で異なるエラー後の反応
あの打球は学生野球の公式記録員ならヒットとおそらく判定する強い打球だった。今年のシリーズは第7戦の塩見泰隆の落球(当初は三塁打と判定)など、記録員が判定を直後に訂正する場面もあり、記録員を迷わせる打球がほかにもあった。しかしこの大切な試合でEのランプがともると野手はいたたまれなくなる。大先輩石川にわびたい気持ちは学生時代内野手だった私にはよくわかる。失策のあとは大きな声で先輩投手に対しては「すみません」、後輩投手なら「すまん」と大声を出していたものだった。無表情で次のプレーに備えることはできなかった。
プロ野球でもエラー直後の野手の顔がアップで映ることが多いが、(このときの長岡も映ったのかもしれないが)野手は申し訳なさそうな顔をして、ときにはてのひらを投手にむけたり「わりい」などと声をかけたりしながらボールを投手に返すのを見かけるものだ。
しかし、これが大リーグだとそうではない。大リーグでも日本と同じような頻度で失策は生まれるけれども、このような野手の表情や動作は見られない。グラウンドで試合中に全力でプレーした結果なのだから、謝罪などするなと教育されているのではないだろうか。実際に大リーグ関係者にこのことを確認したわけではないのだが、来日する外国人野手による謝罪の動作もやはり私は見たことがない。
事実、何十年か前に元大投手の解説者が中継のときに「エラーをしても外国人の野手は自分に謝らないから不愉快だった」と話したことがある。大リーグ中継を毎日見られるような時代になり、この解説者のことばのとおり外国人野手は謝らないものだと認識する一方で、その態度をグラウンドで試合中に見せることの是非は考える必要があると私は思うようになった。
■選手が戦うべきは同僚ではなく相手打者
監督や相手チームから見たら「この野手はへこんでいるぞ」と思わせるよりも「なにも気にしていないようだ」と思わせるほうがチーム全体にとってはいいような気がするのだ。
最終回に痛恨の同点打を浴びた投手が両手を膝についてうなだれるシーンも同じ感想を私はもつ。気持ちはわかるし、チームや先発投手の勝ちを消して申し訳ないという態度を見せたほうが救われるという人もいるかもしれないが、ファイティングスピリットを自分は失っていないという態度を見せるほうが頼もしいし、次のプレーにつながるのではないだろうか。選手が戦う相手はファンや監督や同僚ではなく相手の打者なのだ。
ただし、上述の解説者のように、失策をおかした野手が謝らないことで投手にストレスを生ませるのならそれは考えるべきである。
来日した外国人野手には「日本でプレーする以上は、ひとこと投手に謝るような言動を示してほしい、そのほうが気持ちよく投げられる」と諭すか、投手陣と野手陣に対して「野手は試合中に謝る必要はない。謝るならダッグアウトで謝るように。投手もプレー中に野手は謝らないようにさせるから、それを不満に思わず次の打者を打ち取ることだけを考えるように」と諭すか、どちらかがよいと思う。私が監督なら後者を選ぶ。
■外野手のカバーリングが遅い
ひとつのプレーが勝敗を分け、順位も変わってくるのが野球で、あそこで打っていたら、あの打球を捕っていれば、と言いたくなるのが野球である。投手は捕手のサインを見て力いっぱい腕を振り、打者はそれをバットで打ち返し、野手はその打球にグラブを精いっぱい伸ばし、走者は全速力で塁を奪おうと疾走する。その結果思ったとおりにならなくても、それはしかたがない、悔いが残るプレーではないはずである。「あそこで打てなかったことに悔いが残る」というような表現をする選手がたまにいるが、文法上おかしくはないのだろうけれども私は全力を尽くしたのなら後悔ということばは使う必要はないと思う。
別の作戦を取ったら、配球を変えていたら、前進守備を取っていれば結果は違っていた、などということも言いたくなるけれども、最適の判断だと思っての選択をした結果だからそれもしかたがない。ただ、全力疾走を怠ったとか、ボールから目を離した、アウトカウントを間違えた、というような昔よく使われた「ボーンヘッド」はなんとしても避けたいところだ。
そう考えていくと、自分の意思でできることなのにそれを怠るという事象はスポーツの重要な試合ではあまり見つからないのだが、ひとつ思いつくのはカバーリングである。 日本の野球はこの点徹底していて、投手は「しまった、打たれた」という思いを抱きながらもすぐに三塁や本塁のほうにカバーに走っているし、捕手の投手への返球でもだいたい反対側の内野手が悪送球に備えてカバーリングに動いているものだ。
ところが、外野手が必ずしもそうではないと私はプロを見ても学生を見ても思うことがある。
■余計な進塁をいかに防いで勝利につなげるか
日本シリーズ第6戦の9回表、読者はよく覚えていると思うが、無死一塁で紅林弘太郎の送りバントを処理したスコット・マクガフの一塁送球がそれ、ボールがファウルグラウンドを転々とする間に一塁走者安達が生還してしまった。ヤクルトにとってみれば痛恨の悪送球である。
こういうときに、右翼手はバントの打球がフェアグラウンドに転がった瞬間に一目散に一塁ベースカバーに走るべきなのだ。そうしていればたとえ悪送球があったとしても、二塁走者の三進を阻むことができるかもしれないし、まして生還を許すことはないと思う。バントをした瞬間に外野手がダッシュしたところでデメリットはなにひとつない。
同じようなことは走者一塁での内野ゴロで二塁送球がそれたとき、走者二塁で送りバントを投手や捕手が三塁に悪送球をしたとき、走者が盗塁を企図して捕手の送球がそれたときなども、外野手が全速力で前に行けば走者は生きてしまっても、余計な進塁をさせずにすむ。悪送球とわかってから拾いに行くくらいのスタートをしている外野手が多いと思う。
それではカバーリングとはいえない。
いずれも野手が送球をする前にスタートして失うものはない。
また、投手は打たれたあとすぐカバーに走ると上述したけれども、外野手からの三塁への送球やバックホームが大きくそれた場合にあわててフェンスまでボールを拾いに行くシーンもよく見る。これで三塁走者の生還や打者走者の二進など、余分な塁を与えてしまう。外野手に失策がつくプレーであり、責任は外野手にあるのだが、外野手の送球が大きくそれそうだというのはよく見ていれば外野手の手を離れた瞬間にわかるものだ。投手も動いているのだからむずかしいかもしれないが、ただカバーに走るだけでなく、走りながらも外野手の送球がどのあたりに行くかを見るくらいはできると思う。
そういう余計な進塁をひとつでも少なくさせることが勝利につながると思い知らされた日本シリーズだった。
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著者プロフィール
篠原一郎●順天堂大学スポーツ健康科学部特任教授
1959年生まれ、愛媛県出身。松山東高校(旧制・松山中)および東京大学野球部OB。新卒にて電通入社。東京六大学野球連盟公式記録員、東京大学野球部OB会前幹事長。現在順天堂大学スポーツ健康科学部特任教授。