【三菱ラリーアート正史】第2回 世界最強のラリー軍団が時代をつくる | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【三菱ラリーアート正史】第2回 世界最強のラリー軍団が時代をつくる

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【三菱ラリーアート正史】第2回 世界最強のラリー軍団が時代をつくる
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ラリーアートに待望の浮揚のときが訪れる。

世界ラリー選手権WRC)のグループA化 (当時の規定で5,000台の市販義務と市販状態の外観の維持)により、1987年10月にモデルチェンジした新型ギャランのトップグレード、4WDターボのVR-4 (E39A)によるラリー復帰が発表されたのだ。

◆ 【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

■一世を風靡したギャランVR-4

ドイツのアウトバーンを意識したという高速移動の操縦安定性確保のための2リッター4WDターボが、同年からWRCのトップカテゴリーとなったグループA規定にマッチした。新型ギャランの開発スタートは83年、つまりラリーマシンをランサーEXターボからスタリオン4WDラリーにスイッチした年だと言うから、確かにWRCを意識した装備ではなかったのだろう。 それまでのランサーEXターボ、スタリオン4WDともに、どちらかと言えば時代が先に進んでしまっていたのに対し、このときは時代こそが三菱へと流れてきたと言える。

87 GALANT(C)三菱自動車

ラリーアート・ヨーロッパRAE)によるワークス活動は88年WRC終盤からの参戦に向けてアリ・バタネンをドライバーに始動し、日本ではヨーロッパに先立ちパリダカでも活躍を始めた社員の篠塚建次郎氏が、創設されたばかりのアジア・パシフィックラリー選手権(APRC)にシリーズ参戦した。そして、篠塚氏は初代チャンピオンに輝いた。

日本国内のラリーでも有力チームの多くがギャランVR-4を投入し、「ギャランに勝てるのはギャラン」という状況となった。もちろんライバルメーカーも黙っているはずはなく、スバルは「レガシィRS」、日産は「パルサーGTi-R」を投入する。三菱も対抗すべく短いサイクルでギャランVR-4を改良し、この手法は後にランサーエボリューションに引き継がれた。

一方RAEから88年のWRC最終戦RACラリー (現ラリー・グレートブリテン)より投入されたワークスギャランは、デビューこそリタイヤと苦いスタートとなったが、翌89年には1000湖ラリー (現ラリー・フィンランド) でスポット起用のミカエル・エリクソンのドライブで優勝、最終戦のRACラリーでも同じくペンティ・アイリッカラのドライブで優勝を獲得した。

その後のWRCではシーズンを通してフル参戦とはならなかったこともあり、シリーズチャンピオンを狙う他のワークスチームがスキップするマニュファクチャラー・ポンイトの対象外ラリーでの優勝を得るにとどまった。しかしギャランでWRCの戦い方を学んだ三菱自動車が、やがてランサー・エボリューションで大きな栄冠を得たことは多くの人の記憶に残っているだろう。

特にトミ・マキネンによる4連覇は、のちにセバスチャン・ローブに破られるまで、WRC史上初の偉業だった。

ランサー・エボリューション (筆者提供)

★ランサー・エボリューションの主戦績

1996~99年 WRCドライバーズ・チャンピオン4連覇(トミ・マキネン)1998年 WRCマニュファクチャラー・チャンピオン獲得1999~2001年 WRCグループN (市販車ベース)クラス28連勝

■パリダカール・ラリーのラリーアート

パリ~ダカール・ラリー (以下パリダカ、現在は「ダカール・ラリー」として中東開催)での活動に目を移してみよう。

初出場となった83年を市販車無改造クラスでの優勝で飾り、翌84年はステップアップした市販車改造クラスで優勝したパジェロ。同年4月のラリーアート設立以降初となる85年のパリダカでは改造無制限のプロトタイプクラスに出場し、ポルシエを下して初の総合優勝を獲得した。

そのパジェロにライバルとして立ちはだかったのが「WRCに居場所のなくなった」グループBのプジョーだ。マシン・ポテンシャルに加え、物量に勝り人海戦術を展開するプジョーによってパリダカは従来の、どこか牧歌的なイベントからメーカー同士の「砂漠の高速レース」へと変貌する。

プジョーの独走を「良し」とする三菱/ラリーアートではなかった。フランスの三菱輸入代理店ソノートと傘下のSBMソサエテ・ベルナール・マングレー。通称「マングレーガレージ」)主導のマシン製作から、愛知県岡崎市の乗用車技術センターに設置されたモータースポーツ部 (発足当初は「グループ」) の積極関与へと転換したのだ。それまでは市販車改造のレベルを超えるがゆえにプロトタイプに分類されていた車両から、自動車メーカー本体により綿密に解析・設計されたパイプフレームとWRCで実績を積んできたエンジンの搭載という、「真のワークスチームによる純プロトタイプ」へと変わって行くのである。

93 パジェロ・プロトのリヤ(筆者提供)

85年の総合優勝以降も上位進出、篠塚氏も87年総合3位、88年に総合2位と健闘するも(篠塚氏には、まだ最新のマシンが与えられていなかった)優勝には届かずにいたパジェロ。90年はフランス側の推す実績ある2.6リッターターボエンジンに加え、技術センター・モータースポーツ部によって、ギャランに搭載されWRCで鍛えられてきた4G63エンジンを2.2リッター化で搭載した車両も試験的に投入された。一部メディアからは「岡崎プロト」と呼ばれたのを覚えている。まだフランス側のほうが信頼性が高いのではないか、というニュアンスを含んでいたかもしれない。

そのような体制で臨んだ90年パリダカでも勝利には届かずだった…。

先述の須賀マネージャーの述懐によれば、90年大会後の三菱自動車社長に宛てた宣伝部長、商品企画部長、ラリーアート社長連名による報告書に対し、当時の中村裕一社長(故人)から「そろそろ勝ったらどうか」とのメモが付されて戻されたという。これは暗に、「優勝せよ」という至上命令だ。

だが全車2.2リッター DOHCターボエンジンを搭載して臨んだ91年のパリダカも優勝ならず。予算オーバーでの出場だったこともあり、いよいよ撤退命令も覚悟したそうだが、予算厳守をきつく申し渡された上で参戦継続となったとのこと。

中村社長もまだ三菱がサーキットでレース活動を行っていた時代にフォーミュラ・エンジンに深く関わった人物でもあり、モータースポーツの労苦を知る人であるがゆえの参戦継続の決断だったと思う。

コルトF2000・手前 撮影: 平賀一洋

それに報いるべく臨んだ92年。アフリカ大陸縦断の最長距離で競うことになったパリ~ル・カップ (パリ~ケープタウン)でついに優勝を奪還 (ライバルはプジョーから同じグループのシトロエンに変わっていた)、93年も連覇を果たした。 その後のパジェロの活躍もまた、多くの人の知るところであろう。

なお、さまざまな転機が訪れたとも思える90年大会では後に三菱のエースドライバーとなる増岡浩氏が市販車改造クラスで優勝 (総合10位)を獲得している。これはやがて、大きな成果となって結実する。

1997年には、篠塚氏が日本人として初の総合優勝を飾ると、2002年からは増岡氏が2連覇。三菱パジェロは2001年から7連覇を果たし、この記録は今もって破られていない。三菱は26年におよぶ参戦のうち、計12度の制覇を成し遂げ、「パリダカの三菱」の名を欲しいままとした。

パジェロ・エボリューションMPR10(筆者提供)

◆【三菱ラリーアート正史】第3回 グループAからワールド・ラリーカーへ そして突然の体制変更

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◆【著者プロフィール】中田由彦 記事一覧

著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

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