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F1が自動車レースの最高峰と謳われるように、モーターサイクル・レースにおいて、やはり最高峰とされるのがMotoGPである。
「FIM Road Racing World Championship Grand Prix」として1949年にスタートした世界選手権はかつて「World GP」、日本では「WGP」または「世界GP」と呼ばれていた。2001年までその最上位は2ストロークの500ccクラスだったが、2002年よりMotoGPとして4ストロークをメインとするカテゴリーへと切り替わった。2016年からは正式名称も「FIM Grand Prix World Championship」へと変更され「MotoGP」という略称が定着しているものの、私のような古いライダーからすると、いまだに「WGP」の文字列のほうがしっくり来るものだ。
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■ロードレースの王者の系譜
最上位クラスにおいて、その時代時代の「王者」が君臨して来た歴史も他スポーツと同様だ。
最初に3連覇を果たしたのはMotoGP殿堂入りを果たしているジェフ・デューク(英)。イタリアのジレラを駆り1953年から55年まで王者に君臨。マン島TTレースも5度制覇し、現在でもそのコースには彼の名を冠したコーナーが存在する。
1960年代はイタリア・メーカー、MVアグスタの全盛期となり、1958年から60年まではジョン・サーティース(英)がやはり3連覇。62年から65年まではマイク・ヘイルウッド(英)が4連覇、66年からはジャコモ・アゴスティーニ(伊)が7連覇を果たし、「アグスタ・ダイナスティ」を築き上げた。アゴスティーニは75年にもヤマハで王者に返り咲き、同クラスを8度制覇している。
サーティースはご存知の通り第1期ホンダF1において最後の1勝を挙げたF1ドライバーでもあり64年にはドライバーズ・チャンピオンにも輝いた、2輪4輪の最高峰で王者についた稀有な人物でもある。
ヘイルウッドもまた伝説のひとり。「マイク・ザ・バイク」とまで呼ばれ、2輪で王者となった後にF1デビュー。その後、38歳でドゥカティにまたがり、マン島TTを制してしまう。これを記念しリリースされたマシンがドゥカの「マイク・ヘイルウッド・レプリカ」。長らくバイク乗りの憧れの1台とされて来た。
アゴスティーニは全GPカテゴリー計15のタイトルを保持、これは今もって不滅の記録として輝く。我々の世代にとっては「マルボロ・ヤマハ」の監督として馴染み深い。
以降もキングことケニー・ロバーツ(米)が78年から、90年からはウェイン・レイニー(米)がそれぞれ3連覇。ホンダのマイケル・ドゥーハン(豪)が94年から5連覇を果たした。
こうした歴史の中、2000年代に綺羅星のごとく現れたのがバレンティーノ・ロッシ(伊)だ。96年に125ccでWGPデビューを飾ると97年に同クラスでチャンピオンに、250ccにステップアップすると99年にチャンプに。
満を持しホンダから500ccデビューを果たすと2001年には初タイトル。MotoGPへと切り替わったこの最高峰クラスで計7度も王者を獲得。開催されているGP全クラスで王者となる前人未到の偉業を成し遂げた。
2000年代には「ロッシ時代」は永遠に続くのではないかという幻想まで抱かせた。ロッシはモーターサイクル界に君臨したルイス・ハミルトンであり、ミハエル・シューマッハーだった。
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■革命的ライディング・テクニックとダングル
ロッシはそのライディング・テクニックでも革命をもたらしたとしていいだろう。ライダーとしては180cm以上の長身であり、その長い手足の中でマシンをコントロール下に置くライディングはフレディ・スペンサー(米)を彷彿とさせた。
さらに2ストロークから4ストロークへのマシンの移行期には4スト特有のバックトルクに悩まされるライダーも散見されたが、ロッシはむしろこれに起因するリア・スライドを積極的に活用。80年代から主流となったリアステアリングに加え、前後輪がスライドしたままでも、ステアリングさせるかのようなスタイルを確立、その安定感は際立っていた。
それはまるで氷上を滑りながら、バンクさせたマシンを疾走させるかのように私の目には映ったものだ。
コーナー進入時に内足を上げるライディング(いわゆる「ダングル」)を取り入れたのもロッシだ。ロッシは、「前輪への荷重をプラスする」とその感覚を解説していた。だが、理論上その荷重が生まれるとは私には考えられず、今もって謎のままだ。
もっとも鈴鹿8時間耐久にも参戦していた知人ライダーとこの議論を繰り広げた際、彼はむしろ、この点を「理解できる」と答えていただけに、私のようなドン亀ライダーの理解を越えた領域だったのかもしれない。
ただし、この「流行り」のスタイルのライダーが減少傾向にある点を踏まえると、大きなアドバンテージになりえなかった証左ではないかとも考える。「マイケル・ジョーダンがダブル・クラッチを決める際に舌を出すようなもので、単なる癖に過ぎない」と明言する者までいる。
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バレンティーノ・ロッシ(2004年、後方はセテ・ジベルナウ)(C)Getty Images
「永遠に続く」と思われたロッシ時代も、その終焉に向けた転機がやって来た。
ひとつは、ホンダからヤマハへ移籍を経ても王者であり続けたロッシが、ドゥカティを選択したこと。スポーツに「タラレバ」がないのは定石ながら、これがロッシのライダー人生を変えてしまった。
F1の「セナプロ」に似た構図となり、2010 年に同僚のホルヘ・ロレンソ(西)との王者争いで敗れると、そのままこの移籍を決めてしまった。ドゥカティはこの頃、グランプリのトップ・マシンではなかった。ロッシをして「フロントのグリップが把握できない」と言わしめるマシンで、ロッシは2年にもわたって、限界値よりも下で走るライディングに押しやられ、あのロッシが優勝どころか、たった2度の表彰台をキープするにとどまった。
ロッシのエンジニア、アレックス・ブリッグスさえ「ロッシはレースを辞めてしまうかも」と思ったほどだった。そしてこれ以降、ロッシにかつてのように周囲を凌駕する輝きは戻って来なかった。
また、ヤマハに復帰した2013年オフ、500ccにステップアップして以来、「親父」のような存在だったチーフ・エンジニアのジェレミー・バージェスと袂を分けた。この決断により王者復帰への道が閉ざされたとしていいだろう。
バージェスの助言があれば、14年から3年連続でランキング2位に甘んじたうちのいずれかは、再度王者に返り咲いていたはず……というのが私の見方だ。実際、ブリッグスは「2015年にバージェスがいたら、(ロッシは)チャンピオンになっていたと思う」と公言している。
17歳でGPデビュー。優勝を飾るたびに、いたずらのようにウイリーを繰り返してロッシもすでに30代半ばとなり、ライダーとしても、そのプライムタイムを終えようとしていた。
結果的には16年のランキング2位を最後にチャンピオン争いに加わることはなく、17年第8戦オランダGPでポディウムの頂点に経ったのが、ロッシにとって最後の優勝となった。
■日本人ライダーとの縁
ロッシがGPデビューを飾った125ccクラスは当時、日本人ライダーが席巻していた。94年から98年の間、日本人以外で王者となったのは、ロッシただひとり。坂田和人(94、98年王者)や青木治親(95、96年王者)、上田昇(ランク2位2度、優勝13回)との親交も深かった。96年の来日時には青木の群馬の実家に滞在したほど。
ロッシは、なによりもノリックこと阿部典史による1994年の日本GPの走りに感銘を受け、自身を「ろっしふみ」と称した逸話は日本のファンの間に広く知れ渡っており、ロッシが親日派であることと相まって、キャリア終盤まで多くの日本ファンを魅了し続けて来た。
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バレンティーノ・ロッシ(2004年第15戦オーストラリアGPでの表彰台)(C)Getty Images
阿部は93年に18歳で全日本500ccのチャンピオンとなると94年の日本GPにスポット参戦。ケビン・シュワンツ(米)、ドゥーハンなどの後の王者たちを抜き去る離れ業で世界に衝撃を与えた。このレース、残念ながら世界GPデビューウィン目前にして残りわずか3周でリタイヤとなったが、ロッシを魅了するほどの走りだったと頷ける。
阿部は96年の日本GPで初優勝。片山敬済が82年の第10戦、アンデルストープでのスウェーデンGP以来、実に14年ぶりの日本出身ライダーの優勝だった。阿部は07年10月、公道を走行中、Uターンしたトラックに巻き込まれ還らぬ人となった。この後、ロッシは喪章をつけGP出走している。
26シーズンに渡ってグランプリの主役であり続け、125cc、250cc、500cc、MotoGPとすべてのカテゴリーでチャンピオンを獲得。アゴスティーニの不滅の記録さえ抜き去るのは確実と思わせたロッシのキャリアは2021年を持って幕を閉じた。GP出走は432戦、115勝、235度の表彰台を、金字塔と呼ばずにいられようか。
ロッシの引退は、またグランプリ史の一章が閉じた出来事だった。「ロッシの時代」を惜しみつつ、2021年を見送りたい。
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著者プロフィール
たまさぶろ●エッセイスト、BAR評論家、スポーツ・プロデューサー
『週刊宝石』『FMステーション』などにて編集者を務めた後、渡米。ニューヨーク大学などで創作、ジャーナリズムを学び、この頃からフリーランスとして活動。Berlitz Translation Services Inc.、CNN Inc.本社勤務などを経て帰国。
MSNスポーツと『Number』の協業サイト運営、MLB日本語公式サイトをマネジメントするなど、スポーツ・プロデューサーとしても活躍。
推定市場価格1000万円超のコレクションを有する雑誌創刊号マニアでもある。
リトルリーグ時代に神宮球場を行進して以来、チームの勝率が若松勉の打率よりも低い頃からの東京ヤクルトスワローズ・ファン。MLBはその流れで、クイーンズ区住民だったこともあり、ニューヨーク・メッツ推し。