【高校野球】池田高校「恐怖の9番打者」が振り返る日本一に沸いた夏 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【高校野球】池田高校「恐怖の9番打者」が振り返る日本一に沸いた夏

新着 ビジネス
【高校野球】池田高校「恐怖の9番打者」が振り返る日本一に沸いた夏
  • 【高校野球】池田高校「恐怖の9番打者」が振り返る日本一に沸いた夏

どれだけ時間が経っても、色褪せないシーンがある。


1982年夏の甲子園はもう40年も前のこと。甲子園のアイドルだった荒木大輔(元ヤクルト・スワローズ)が完膚なきまでに叩きのめされた試合、早稲田実業池田高校の一戦は高校野球ファンの記憶にしっかりと刻まれている。


◆【あのころ】池田高校が初優勝 猛打の「やまびこ打線」


■甲子園のアイドルを破壊した「やまびこ打線」


一年生の夏、16歳でさっそうと登場し、5回も甲子園に出場した荒木の集大成となるはずの夏。日本中を驚かせたのは池田の爆発的な打線だった。初回、江上光治のホームランなどで2点を奪ったあとも、猛打が続く。6回が終わった時点で2対7。甲子園で通算12勝を挙げた好投手は、7回途中でがっくりとうなだれたままでマウンドから降りた。終わってみれば、14対2で池田の圧勝だった。


やまびこ打線」の中軸には、のちにプロ野球で活躍する畠山準(元南海ホークスなど)、水野雄仁(元読売ジャイアンツ)がいた。しかし、他校を震え上がらせたのは打順に関係なく強打が続いたこと。その代表が、「恐怖の9番打者」と呼ばれた山口博史さんだった。「甲子園の初戦はノーヒットに終わったあと、2回戦(日大二)、3回戦(都城)と続けてホームランを打って話題にしてもらいました」。


池田打線は好球を見逃すことなく、初球からフルスイング! ヒットがヒットを呼び、あっという間に大量得点を奪うのが、あの夏の勝利の方程式だった。荒木はのちに池田戦の大敗を振り返って「高校時代のすべてを池田打線に破壊された」と語っている。


あの夏の主役のひとりである山口さんはこう言う。「僕たちにとって、荒木大輔というピッチャーの存在は大きかった。甲子園に行きたいよりも、荒木と対戦したいという思いが強くて、組み合わせ抽選の前、キャプテンに『早実との試合を引いてくれ!』と頼んだくらい」。


山口博史(やまぐち・ひろし)


●1964年6月25日徳島県出身。小学校2年生から野球を始め、中学2年時、蔦監督に誘われ池田高校へ進学。1年秋からレギュラー入りを果たし、全国制覇を成し遂げた3年夏の甲子園では「9番・遊撃」で出場。2回戦の日大二高戦、3回戦の都城戦で2試合連続となる本塁打を放ち「恐怖の9番打者」として高校球史に名を残す。卒業後は九州産業大に進学。大学1年からベンチ入りを果たす。情報システムの会社で役員を務めるかたわら、調布リトル、同シニアにて指導。


山口博史さん所蔵の優勝記念パネル 優勝の瞬間 右端が山口博史さん  協力:三好市


■前評判を覆し池田町悲願の日本一に


早実が東の横綱、西の横綱として注目されていたのが剛腕エース・畠山を擁する池田。注目の対戦は準々決勝で実現した。


両エースによる投手戦の予想は初回に覆され、一方的な試合展開になった。


「バックネット裏にたくさんの『大輔ギャル』が並んでいて、試合に勝ったあと『山口のバカ』とかいろいろなことを言われました(笑)」。


準決勝で東洋大姫路を下し、決勝戦も名門・広島商業に12対2で圧勝し、初めての日本一に登りつめた。


「決勝戦前日の夜、蔦先生はお酒を飲んでいたんでしょうね。少しおどけた感じで『みなさん、わたしを日本一の監督にしてください~』と言われました。普段、そんなことは絶対になかったので、ものすごく印象に残っています」。


人口2万人ほどの池田町(現・三好市)は、初めての日本一に沸いた。


「甲子園から戻ったとき、ものすごい数の人が迎えてくれました。国道の脇で、みなさんが旗を振ってね。池田町に着いたら、町の全員が集まってきたんじゃないかという大騒ぎでした。卒業したときにファンレターをまとめて渡されたんですが、3000通か4000通はあったかな」。


■蔦監督に反抗して9番に降格……


初めて日本一を手にしたとき、蔦は58歳だった。それまで、彼の母校である徳島商業に何度も甲子園行きを阻まれ、甲子園に出ても2度、決勝で涙を飲んだ。中学時代から大物と騒がれていた畠山が入学して、「甲子園に5回行ける」と蔦は豪語したが、その夏まで甲子園にたどり着くことができなかった。


山口さんが言う。


「中学時代から、畠山は誰もが知る存在でした。周囲からの甲子園出場の期待を感じていましたが、それに応えることができなかった。二年生の夏、準決勝の徳島商業戦でショートを守っていた僕が同点エラー、逆転のエラーをしてしまいました……」。


最後の夏の徳島大会に優勝して甲子園出場を決めたとき、うれしさよりも安堵が強かった。ずっと重くのしかかっていたミッションを果たしたことで、甲子園で大暴れできたのだ。「正直、甲子園で勝ち上がるよりも、徳島で勝つことのほうが大変でした。『なんとか甲子園に行けた』という気持ちでした。蔦先生の指示でいつも甲子園を想定した練習をしていたので、初めてでも戸惑うことはありませんでしたね」。


強気な姿勢を貫き「攻めだるま」の愛称で高校野球ファンに愛された蔦だが、選手にとってはとてつもなく恐ろしい存在だった。


当時のことを語る山口博史さん(写真:編集部)


山口さんが振り返る。


「学校で女子生徒にあいさつされると蔦先生は笑顔で応えていましたが、僕たちにはそんな表情を見せたことがない。とにかく怖い人で、話しかけることなど一度もできませんでした。言われたことを『はい』と聞くだけ」。


だが、それほど恐ろしい監督に、山口さんは歯向かったことがある。いや、指示を聞いたうえで、自分流を貫いた。


「もともと僕は3番を打っていたんですが、蔦先生の逆鱗に触れて9番に。『バットを寝かせて打て』と言われたのに、先生が見ていないと思っていつも通りに打ったんです。気づかれてないと思ったんですが……」。


 甲子園でも、サインを拒んだことがある。


「早実戦の第1打席。チャンスで打席が回ってきて、スクイズのサインが出たんです。でも、荒木からヒットを打ちたかったから、サインがわからないフリをしてタイムを取った。そうすれば違う指示が出るかと思ったんですが、そのままで。次のバッターだった窪靖に『おまえ、ようそんなことができるな。大変なことになるぞ』と呆れられました(笑)」。


監督が「白」と言えば、黒いカラスも「白」になる、そんな時代に山口さんが見せたささやかな反抗だった。監督の命令や指示は絶対だったが、蔦はどこかで選手たちの反骨心を試していたのかもしれない。


「6年ほど前に同期で蔦先生のお墓参りに行って、お宅にお邪魔したときに、畠山が先頭で僕は後ろのほうにいたんです。そうしたら奥様に『山口は来とるの?』と言ってもらって、ものすごくうれしかった」


もしかしたら、蔦先生は自分のことを気にかけてくれていたのかもしれないー山口さんはそう思った。


■甲子園優勝で人生が変わった


高校三年生の夏に甲子園で優勝し、全日本メンバーにも選ばれた。苦しかった高校野球を最高の形で終わることができた。


「とにかく、練習が厳しくて、監督が怖くて、毎日、野球をやめたいと思っていました。もう少し違う取り組み方をしていれば、もっと野球がうまくなったのかもと反省しています」。


山口博史さん所蔵の優勝記念パネル 集合写真   協力:三好市


 高校卒業後に九州産業大学に進んだ。就職したのち野球から離れていたが、2007年からリトルリーグ(少年硬式野球)の指導に携わるようになった。あの荒木が在籍した調布リトル・シニアだ。「週末、ボランティアで子どもたちに野球を教えるようになって20年あまり。週末は、朝9時から夕方6時までグラウンドにいる生活です。教えた子たちがたくさん、甲子園に出ています」。


自分が甲子園の土を踏んでから40年近くが経ち、指導する子どもたちにかつての恩師と同じことを言っている自分に驚く。「高校卒業後に母校に行って蔦先生から食事に誘われても、断っていました。恐れ多いというか、何というか……。でも、選手たちに『全国で勝つための野球をやろう』とか、『自分で考えて野球をやれよ』と言っているときに、『あれっ、これは蔦先生がいつも僕たちに言っていたことじゃないか』と」。


 もしかしたら、ノックの打ち方も似ているんじゃないかとも思う。「池田の練習は、最後にノックで締めるんです。いつも、ショートにノックを打つのは蔦先生と決まっていました。僕は、蔦先生のノックで鍛えてもらいましたから」。 記憶の中の蔦と同じ姿勢で選手たちのバッティング練習を見ていることに最近、気づいた。山口さんは来年、日本一になったときの恩師と同じ58歳になる。


「最後まで、蔦先生と気軽に言葉を交わすことはありませんでしたが、自分の中に蔦先生の野球が、『蔦イズム』がしっかりと残っているのだと思います」。


最近になって、自然に浮かぶのは蔦先生のこと。バッティング練習のとき、ケージの近くに〝きつそうな顔〟で座っている――そんなイメージが残っています。『またこいつ、こんなことしやがって』と呆れているような表情で(笑)」。


高校時代を振り返る山口博史さん(写真:編集部)


 山口さんが高校3年間を過ごした池田町、入学試験の日に校舎から外を見たら、四方が山ばかりで驚いたこと。ジャスコの最上階にあった喫茶店で、部員6人が集まってチョコレートパフェを食べたこと。疲れを癒すために入った池田温泉で、当時のヒット曲『ルビーの指環』が流れていたこと。


いろいろなシーンが甦る。「池田町には高校3年間しか住んでいませんでしたが、いまでも『帰る』という感覚ですね。母親が徳島市内に住んでいるので、帰省したときには何か理由をつくって池田町に帰るようにしています」。


協力:徳島県三好市|まるごと三好観光ポータルメディア


著者プロフィール


元永知宏●スポーツライター1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て独立。


著書に『期待はずれのドラフト1位』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球を選ばなかった怪物たち』『野球と暴力』(イースト・プレス)、『補欠のミカタ レギュラーになれなかった甲子園監督の言葉』(徳間書店)、『甲子園はもういらない……それぞれの甲子園』(主婦の友社)など。


◆コロナと雨に翻弄された夏の甲子園の収穫


◆熱い高校野球が戻る日まで それでも球児は「夏」を目指す


◆【著者プロフィール】元永知宏 記事一覧

《SPREAD》
page top