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ちょっとしたスポーツ通なら、Bリーグの川崎ブレイブサンダースを「名門」と呼んで差し支えないとご存知だろう。創設は1950年に遡る。当初は「東芝小向」の同好会だったとされるが、その5年後には関東実業団リーグに参戦。以降、再編によってその舞台は、日本リーグ、スーパーリーグ、JBL、NBLと変遷して行くものの、優勝6回、準優勝5回と強豪クラブとして、日本バスケ界の歴史にその名を刻んで来た。
東芝を母体としたクラブは2018年からDeNA傘下となった。そんな名門を率いる元沢伸夫社長は、飛ぶ鳥を落とす勢いのIT関連企業において、さぞかしエリート街道を驀進し現職にあるものだろう。そう勝手に思い込んでいた。しかし今回、彼の意外な過去が明らかに。スポーツ界でのキャリアを目指す方には、ぜひ参考としてもらいたい。
元沢伸夫(もとざわ・のぶお)
●株式会社DeNA川崎ブレイブサンダース代表取締役社長1976年11月26日千葉県松戸市生まれ。立教大学経済学部経営学科卒業後、経営コンサルティング会社勤務。2006年にDeNA入社。社長室にて新規事業などに従事し、ビジネス開発部部長、HR本部人事部キャリア採用マネージャー、中国韓国展開ゲーム事業プロジェクトリーダーなどを歴任。2014年に横浜DeNAベイスターズに出向、執行役員事業本部本部長などを務め、2018年1月より現職。
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■食べられるのは毎日、マヨネーズご飯
「両親ともに商売をしておりまして、零細企業ではありましたが、その影響で高校ぐらいから、いずれ自分もビジネスをするんだ、経営の道を歩むんだと、自然と考えるようになりました」。経営者たるもの、やはりキャリアのスタートからして心構えが違う。
その道を考え始めたのは、はや高校時代。ビジネスを学ぶため、大学卒業後は中小のコンサルタント会社に就職。当初3年を目標とし、そこで経営を学ぶ。現実には、計画がやや早まり、2年半で独立、起業へとこぎ着けた。なるほど、そこから順風満帆かと思いきや……。
「25歳で独立、まだまだ力が足りませんでした。甘かった。登記してから、たった半年で挫折。仕事がない、仕事がない……仕事ができないつらさを体験しました。食べられるのは毎日、マヨネーズご飯。地獄だと思いました」、その体験とは裏腹に、元沢さんは穏やかにそう語る。
「いい勉強になりました。以来、どんな仕事をしても、すべての仕事が楽しくて楽しくて仕方がありません」と笑い飛ばす。世のサラリーマンは「仕事が辛い辛い」と嘆く。しかし、食べていけない辛さを味わった者にとって、地獄を見た者にとって、勤労の喜びは美味へと変わるのだろう。
■大赤字の球団経営へ立候補
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元沢さんは、赤字だらけのプロ野球経営に自ら立候補した
そんなどん底で、人材紹介会社の方に「絶対にキャラクターに合うと思う」と薦められ、DeNAを受ける運びに。同社も当時はまだ創業8年目、全体で300人程度の規模だった。いきなり南場智子代表取締役(当時)との面接に挑む。「ここでなら自分が成長できそうだ」と直感。相思相愛とでも表現すべきか……当時同社ではまだ珍しかった中途採用として入社。新設された社長室に配属となった。ここで新規事業を担当する。
「他チームが立ち上げたプロジェクトのリーダーを務めることもありましたが、新規事業は3つほど経営させてもらいました」。ここでも、すべてが順風満帆というわけではなかった。「混沌としたミッションも多かった。もちろん、失敗もありましたけども、私にとっては得るものも大きかった。失敗を恐れない文化も根付いていた。DeNAに教育してもらったようなものです」と同社の懐の深さに感謝を忘れない。
さらに、それまでになかった中途採用の部署を立ち上げ以降、採用担当としても長く務めた。ここまでスポーツとは、ほぼ縁のないキャリア。しかし、そこに転換期が訪れた。DeNAのプロ野球参入である。
「インサイダー情報になってしまうので社内でも極秘でした。2011年12月に突然、ニュースとして報道されまして、会社は大騒ぎになりました」。日本でスポーツビジネスの花形と言えば野球だ。社内でもさぞかし希望が殺到したのだろうと思いきや……。
「今でこそ社内体制も異動にフレキシブルになり、球団は人気部署になっていますが、当時は大赤字の球団経営。『なんでプロ野球なんかに参入を!』という空気感にあふれ、誰も手を挙げませんでした」。
だが、元沢さんは違った。「これは挑戦だ。プロ野球だったらやってみたい」と自ら立候補。その気概が買われた。2013年の年末、球団への異動が決まった。
■ひとり三役の事業本部長
肩書は「事業本部長」。スポーツビジネスに従事していない方々にとって想像が難しいだろうが、球団経営はそれほど潤沢なリソースがあるわけでもない。事業規模としても、大企業とは言い難い。現在でも、某球団幹部は「日本一有名な中小企業」と卑下するほど。赤字球団だったベイスターズとしては、なおさらだろう。
「事業本部長と言っても、チケッティング、スポンサーセールス、グッズセールス、放映権の統括責任者だけでなく、スポンサーと放映権は部長も兼務するという、ひとり三役でした」。
物販などなら、他業種にもある程度のノウハウがありそうだ。しかし、特に放映権ビジネスはどの業界にも転がっているような代物ではない。それでも「とにかく放映権を学んでひとりでやれ!」と、究極のOJTだった。「幸い」としていいのだろうか。ベイスターズの前オーナー企業は、在京キー局TBS。「とにかく放送関係者に教えを請うしかありませんでした。TBSの方々には何十人にもお会いして育ててもらいました」。
一般的には、その金額などもタブーとされる放送権の世界、局以外も11球団を訪ねてまわった。「追い返されることもありましたね。でも、まずは(放映権の)相場がわかっただけでも大きかったです。みなさん、何も知らない自分を可愛そうだと思ってくれたのだと思います」と苦笑する。
全国を飛び回り各球団からノウハウを学んだ。「グッズセールスについては、(広島)カープさんが素晴らしく、年に3回ぐらいは訪ねたものです。スポンサー営業に関してはソフトバンク(ホークス)さんが進んでいました。みなさんには、本当にお世話になりました」。
■Bリーグ参入という新たな冒険
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天皇杯優勝時の記念撮影 中央:白いマスクの女性が南場さん、その左、ややトロフィーに隠れ気味な男性が元沢さん (写真提供:日本バスケットボール協会)
この労苦が報われ、2016年に黒字化を果たす。球団単体で黒字というのも、今でこそさほど珍しい状況ではない。しかし、2000年当初など球団経営に黒字などないと揶揄された業界。それを経営譲渡からわずか5年で黒字化を達成、その手腕は高く評価されたに違いない。
こうした困難を乗り越え、チャレンジを続けて行く原動力はどこにあるのか。その根底にあるのは、20代での「地獄」と思えるほどの挫折、そして自身の中に根付いている「起業家マインド」だという。
「混沌としているものを軌道に載せるミッションが好きなんです。(自身の)起業家精神がDeNAという会社の文化に合致、様々なミッションに当たらせてもらっています。幸せなことだと思います」。
ベイスターズの黒字化を機に、DeNAでは次のスポーツビジネスが模索され、検討部会が開かれた。「自分がバスケットボールのポテンシャルを買っていたものですから」と元沢さんは、Bリーグへの参入を強力にプッシュ。ベイスターズが2017年に日本シリーズへ進出するという追い風もあり、バスケの経営に乗り出す決定がなされた。
当時ベイスターズの岡村信悟社長(現DeNA社長)に新しいチャレンジをしたいと立候補。東芝から事業承継を受け2018年、DeNAはBリーグに参入。それと同時に元沢さんは、クラブの代表取締役社長として、新たな冒険に乗り出した。
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著者プロフィール
松永裕司●Stats Perform Vice President
NTTドコモ ビジネス戦略担当部長/ 電通スポーツ 企画開発部長/ 東京マラソン事務局広報ディレクター/ Microsoftと毎日新聞の協業ニュースサイト「MSN毎日インタラクティブ」プロデューサー/ CNN Chief Directorなどを歴任。出版社、ラジオ、テレビ、新聞、デジタルメディア、広告代理店、通信会社での勤務経験を持つ。1990年代をニューヨークで2000年代初頭をアトランタで過ごし帰国。Forbes Official Columnist。