【パリダカ回想録】最終回 三菱パジェロ3連覇ならず、そしてエースドライバーとの残された約束 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【パリダカ回想録】最終回 三菱パジェロ3連覇ならず、そしてエースドライバーとの残された約束

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【パリダカ回想録】最終回 三菱パジェロ3連覇ならず、そしてエースドライバーとの残された約束
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■ハンドリングの三菱、パワーのシトロエン


三菱ラリーアートチームは12月31日、前年優勝のブルーノ・サビーモロッコでフロントサスペンションを大破。9時間遅れとなり、早々にチームのクイックサポートに回った。


T2(市販車改造クラス)増岡浩選手もコ・ドライバー(ラリーのナビゲーター)によるCP(チェックポイント)見落としがあり5時間のペナルティと多難のアフリカステージとなった。


ローマを経由して帰国 (C)Yoshihiko Nakada


応援ツアーは年越しとともに帰国。私はラリーアート社からのリアルタイム結果のファックスや映像などで経過を確認しつつ通常業務に復帰、営業部所管の「パリダカ報告会」の準備にかかっていた。


ラリーは例年ならゴールのダカール折り返しの1月5日時点でシトロエンを追う展開。三菱に大きな転機が訪れたのは復路の8日。モーリタニアで逆転を狙いGPSを使ってコースをショートカットする作戦が裏目に出た。誰も通っていないフカフカの砂に足を取られ大幅にタイムロス。シトロエンが選択したロードマップどおりの正規ルートは路面も締まり、走りやすかったようだ。


パリの車検場で感じたシトロエンZXラリーの脅威は、やはりアフリカで現実のものとなった。多少のギャップや砂丘は一気に乗り越えて行く。それは現代のダカールラリーで主流となっている「バギー」に近い。対して三菱パジェロは操縦性重視のコンセプトで、砂丘やギャップをヒラリヒラリとすり抜けるイメージのハンドリングマシンだった。シトロエンのリードが広まった。


■冒険者の前に立ち塞がる「死の砂丘」 30時間に及んだ砂漠の死闘の末に……


そして運命の1月9日、モーリタニア「死の砂丘」と呼ばれた未知のルート。その名の通り今に語り継がれる難コースで、モト(バイク)の競技が早々にキャンセルされた。


シトロエンでさえ走破をあきらめ、CP不通過のペナルティ覚悟の迂回ルートを取った。最後の逆転チャンスとみた三菱ラリーアートチームはブルーノ・サビー、ジャン・ピエール・フォントネの2台が正規ルートでのCPを目指すが、コ・ドライバーのドミニク・セリエスブルーノ・ムスマラ(97年に他界)はパジェロを降り歩いてのナビゲーション。実に30時間の不眠不休の戦いでCPに到着し、フォントネが逆転トップとなる……はずだった。


だが11日、主催者は無情の裁定を下す。激闘のステージは無効となり、極限まで体力を削ぎ落とされた選手たちの安全を最優先した三菱ラリーアートチームはT3(プロトタイプ)の撤退を決定。30時間に及んだ砂漠の死闘を無効とした主催者への抗議だったとも言われている。


残されたのは前半のペナルティを帳消しにし、上位進出の望みをつないだ増岡のみ。ここから三菱陣営の期待を背負って増岡の激走が始まる。前を行くシトロエンは2台、プロトバギーは1台。それらにトラブルがあれば「表彰台」だ。もちろんタナボタを狙う増岡ではない。


プライベーター除き三菱陣営唯一の生き残りだが、守りには入ることなく、最後の最後までライバルを追った。


■シトロエンの1-2フィニッシュ、三菱パジェロの増岡は総合4位


1月14日、ヨーロッパへと帰ってきたラリーはスペインのモトリル、フランスのシャトー・ラスツールを経て16日パリのユーロディズニーランドにゴールした。4輪出走台数144台のうち、パリ帰還を果たしたのは58台だった。


シトロエンの1-2フィニッシュ、3位のプロトバギーをはさみ三菱パジェロの増岡は総合4位、1990年以来の市販車改造クラス優勝を獲得した。香港~北京ラリーから知らずに始まっていた「私のパリダカ」も増岡選手とともにゴールした。


だが、ふと思うことがある。今もって私自身のパリダカはまだ終わっていないのかもしれないと。それは、遠い日の約束が残っていたからだ。


パリダカ報告会のためディーラーに展示されたパジェロプロト (C)Yoshihiko Nakada


■30年前に増岡浩選手と交わした「約束」


2021年となった今でも、増岡選手との30年前の「約束」を思い出すことがある。お互いまだ若手で彼がフランスでの修行を終えて帰国、日本を拠点に活動を始め同じレースに出ていた頃だ。


「増岡さんは世界の頂点、私は底辺から。それぞれのポジションでモータースポーツを通じて三菱のファンを創ろう」。


そう約束した。


私がパリスタート、ボルドーで着用したコート。右胸には「MITSUBISHI Kenjiro」のワッペン (C)Yoshihiko Nakada


やがて三菱のエースドライバーとなった増岡選手は2002年、2003年とパリダカを連覇し約束を果たしてくれた。私は同じ頃に三菱自動車を離れたため、その約束を十分には果たせていないと心の片隅で思い続けてきた。


だがこの回想録の執筆は、その約束を私が僅かでも果たせるように、次の世代に「三菱パジェロ、かく戦えり」と伝えよとの天の配剤だったのかもしれない……。


【パリダカ回想録】1994年版完


著者プロフィール


中田由彦●広告プランナー、コピーライター


1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

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