【パラ陸上】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録、「仕事との両立」後進のためにも走り続ける保田明日美 後編 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【パラ陸上】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録、「仕事との両立」後進のためにも走り続ける保田明日美 後編

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【パラ陸上】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録、「仕事との両立」後進のためにも走り続ける保田明日美 後編
  • 【パラ陸上】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録、「仕事との両立」後進のためにも走り続ける保田明日美 後編

■ホームから転落、九死に一生を得る

2017年5月、保田明日美は右足を切断した。駅のホームから転落、電車の下敷きになるというショッキングな事故を経ての出来事だった。両親は保田以上に悲しんだといい、摂食障害に苦しんでいたことを知っている母親は特に意気消沈していたと保田は語る。初めて乗った車いす。乗るだけでも貧血でふらふらとして、漕ぐのもままならないような状態だったという。このまま車いすの生活が続くのかという不安以上に、「これから生きていけるのかな」という大きな不安を抱えていた。「大丈夫、また歩けるようになるよ」という医師の言葉を信じるしかなかった。食べることに関してはまだ少し葛藤があったが、「体重を増やさないと歩けるようにならない。足を失くしたのにこれではいけない、と思えるようになっていきました」。

◆【前編】アスリートとして二刀流の活躍で世界新記録 保田明日美が足を失い気づいた大切なもの

それから三重県いなべ市にある日下病院でのリハビリがスタートした。日下病院で義肢装具を専門とする加藤弘明先生との出会いが、保田にとっての大きな転機となった。 陸上サークルの活動にも参画している加藤先生から誘いを受け、保田は初めて練習会に参加した。初めて競技用のバネ付きの義足を装着し、駆け足をする保田選手の姿を見た加藤先生は、その姿を見て「これは走りそうだな」と実感したという。そこから練習は本格化、歩くのもままならなかった保田はあっという間に「走れる」ようになった。切断からわずか3カ月の出来事だった。そこで義足の仲間との交流が生まれ、楽しさと同時に安心したと保田は語る。そこからはみるみるうちに陸上競技に引き込まれていった。

豪快なジャンプでパリ・パラリンピックをつかみきれるか

■「もう風を切って走ることはできないだろう」と

「もう風を切って走ることはできないだろうと思っていたんですが、それがもう1回できた。切断後、身体が走り方を忘れていない段階で走ることができたのは、大きかったと思います」。

それまでは摂食障害に苦しみ、周囲との交流には消極的だった保田。しかし義足で競技を始めたことで、チームの仲間との心の交流ができているという実感が生まれた。 そこから少しずつ、「ありのままの自分」を受け入れられるようになっていったという。

「退院してすぐ、大学時代の友人の結婚式に行ったんです。入院している間は、家族以外ほぼ誰とも連絡を取らずにいたので、義足になった私を見た友人たちは当然驚いていました。退院したばかりでまだ足取りも覚束なかったけど、友人たちは今までと変わらず接してくれました。そのとき、“たとえ見た目が変っても、私自身は何も変わらないんだ”と実感できたんです。それまでの私は、自分と他人を比較して勝手に劣等感を抱いたり、人生に夢や目標を持てない自分はダメな奴だと思っていました。だけど本当は特別な「何者か」になる必要はなく、そのままでいいんだと。そう周りが気づかせてくれて初めて、自分自身にかけた呪いから解放されたように、不思議と気持ちが楽になっていきました」。

不幸な事故を経て右足は失われたが、自分自身の心を取り戻していくきっかけが生まれた。

「足を失くしてしまったことはもちろん悲しいです。でも、事故に遭わなければ、今でもずっと摂食障害の症状を引きずっていたかもしれない。そういう意味では、足を失くすという経験をしたことによって、本当に大切なものに気づくことができたと思います」。

外見を気にして始めた極端なダイエットが原因で摂食障害に苦しんでいたが、「事故を経て、見た目を気にしても仕方がない、と思うようになったんです。足はもう生えてこないから、無いものを求めても仕方がないな、と。自分自身の人生を見つめ、この残された身体でどう生きるか、よく考えるきっかけになりました」と保田は語る。

■競技を続ける難しさと二刀流の大きなメリット

風を切って走ることはもうできないと思った

パラアスリートであり続けるということは、決して簡単なことではない。就職などの環境の変化で練習の機会が失われたり、競技が継続できたとしても、例えば義足が身体に合わないために痛みに悩まされ、競技を辞めてしまうアスリートたちもいた。コストの面で悩みを抱えるアスリートも多い。特に競技用の義足は100万円にも及ぶものもあり、競技用義足を試したことさえないという障害者も数多くいる。これがパラ・スポーツ参入の障壁となっていると保田は語る。

保田もスポンサーなどの支援を受けているわけではない。わずかばかりの県の助成金でやっと競技用の義足を一本仕立てた。

「資金的にはみんな給与からやりくりしています。活動費は今も全部自腹。競技活動も有休をもらって行っています。遠征などの際は一応、配慮してもらって長期間休ませてもらったりしています。他のバラ・アスリートと一緒に合宿すると、みなさんオフの日には外出しますけど、私は部屋にこもって仕事しています」。

今、はやりの言葉で表現すると二刀流パラアスリートだ。

ただし保田は、二刀流のメリットも享受できると考えている。「スポーツのみの活動だと、やはり世の中に生み出せる価値はある程度限られて来ると私は考えています。仕事をすることは、また別の形で自分の力を社会に還元できていると感じます。身体能力だけではなく、異なる知識や技術を身につけ、経験を積んでいくという意味では、仕事にしかできないこともあると思います」。

また、アスリートにとって引退後の「セカンド・キャリア」は常に大きな問題となるが、もともと仕事を持っていることでキャリアの可能性は広がっていく。スポンサー企業との契約がないことも、言い換えるならば自身の決断で自由に活動できる点もメリットだという。

■東京大会も変えることができなかったパラアスリートの環境

2021年には東京2020パラリンピック競技大会が開催されたものの、日本のパラアスリートが置かれている環境がほぼ改善されない点は、歯がゆいとの思いがある。2021年以降、競技会の数そのものは増えたものの、「ダイバーシティ」という号令がひとり歩きし、パラアスリートに対する企業の考え方そのものが進展しているとは実感しがたいのが現状だ。

それどころか、これまで自由に参加することができた海外のグランプリ・シリーズへの派遣も、条件をクリアし指定を受けた「強化選手」のみと日本パラ陸上連盟から発表されるなど、パラアスリートの活動は限定的になってきていると保田は語る。パラリンピックでメダルを獲るという強化方針が理解できないわけではないが、むしろダイバーシティの観点からは逆行している。

そんな中、2022年7月、「WPA公認 NAGASEカップ パラ陸上競技大会」(以下NAGASEカップ)が初開催された。世界パラ陸上競技連盟(WPA=World Para Athletics)公認のNAGASEカップは、パラアスリートのみに向けられた大会ではない。障害を持たないアスリートも同時に参加可能な「高みを目指すすべてのアスリート」に向けて開催された競技会だ。

そのNAGASEカップに出場した保田は「これまでも健常者の大会にパラアスリートが『お邪魔させてもらう』みたいな大会は存在したのですが、そうではなく、アスリートとパラアスリートが同じ舞台で競技に臨むことができる大会はすごく新鮮でした。楽しんで参加させてもらいましたね」と、斬新さを讃えた。

「健常のアスリートと同じ種目で一緒に走る際も、自分と近いタイムの選手がいれば『追いかけて良い記録を出すぞ』という、お互いに切磋琢磨しあうといった心持ちはありました。お互いにとって刺激になりますね。こうして、障害の垣根を超えることができるのがスポーツの一つの醍醐味でもあると思います。それに、このような大会が増えれば、パラアスリートも健常のアスリートと一緒に競技ができるということを世の中の人に認識してもらうこともできるし、知ってもらうこともできる。生で見てもらうのが一番だなと感じています。競技していることを見て、知ってもらうことで、その先にはパラリンピックのような大きな大会があると認識してもらえると嬉しいです。

また、スポーツ全般について言えることですが、こうしてパラと健常との垣根を超えることができるのが、スポーツの醍醐味のひとつだと思います。こうした大会が継続的に行われ、これが指針として残されて行くのは、ダイバーシティ、共生社会の具現化という観点からも大賛成です」。

会社員としても活躍する二刀流アスリートでもある保田

■世界記録樹立とパリへ

保田は2022年7月に出場したNAGASEカップにおいて、非パラリンピック種目ながら女子400メートル走(義足T63)で1分21秒50の世界新記録を樹立。

「私自身、すごく自信に繋がったと実感した大会でもあります。もちろん記録を出せたという点もありますが、それよりも一緒に400メートルを走った選手たちと交流できたことや、大勢の方々に観戦してもらっている中で堂々とした試合ができた大会でもありました。選手として、精神面で成長できたのが大きかったと思います」。

大学生時代に摂食障害で苦しんだこともあり、自己主張をしないタイプだった。自身では記録も凡庸で、華々しく注目されることもなく、細々とスポーツを続けていければ良いとさえ考えていたこともある。

「自分に自信がなくて、人から見られることをすごく気にしていたんです。でも、今となっては、自分が自分を認めてあげられることが一番大切だと思うようになりました。だから、自分を認めてあげられる自分になれるように日々努力しています。そして、パラアスリートとして、これからは自分からも社会へ向けて声をあげていこうという気持ちが芽生えました。また一つ、成長につながっていったらいいなと考えています」。

保田は現在、次のパラリンピックを目指す上でも(パラ種目である)100mと走り幅跳びに専念しているが、今後はマラソンやトライアスロンにも挑戦しようと考えている。

「そのうえでも、仕事との両立、二刀流は継続してがんばっていきたいと思っています。二刀流をまっとうしたい。後進のためにも、ひとつのロールモデルとなるように今後も走り続けていきたいですね」と語る保田。ダイバーシティ、共生社会の具現化に向けて、さらなる飛躍が期待されている。

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提供●NAGASE CUP

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