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ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦、ブルペンとダッグアウトを往復する3番打者大谷翔平の姿を見て、救援投手陣は何を思っていたか、ずっと私は気になっていた。
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■存在価値を否定されたリリーフ投手陣
特に栗林良吏の離脱後唯一残ったクローザー要員の松井裕樹の思いを知りたかったのだが最近、「まあ情けない期間でしたよ」との告白が『Number』誌に掲載されているのを目にした。
リリーフ投手から見れば、最後のマウンドに先発投手陣が上がるというのは屈辱的なこと、自分の存在価値を否定されたようなものである。
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球団初日本一に貢献した田中将大はヤンキースへ (c)Getty Images
侍ジャパンの投手コーチ吉井理人自身、近鉄のクローザーとして働いた1989年に近鉄が優勝を決めた最終戦、先発は前回の本稿でも登場した加藤哲郎、最終回を締めくくったのはエース阿波野秀幸だった。吉井は不満を漏らしたと記憶している。
日本シリーズの最終戦などでは、こういうことはよくある。印象に残るのは2013年の日本シリーズ第7戦、最後のマウンドに上がったのは前日完投したばかりの田中将大だった。
2009年の第2回WBC決勝戦も侍のクローザーとしてメンバー入りしていた当時28歳で全盛期の藤川球児もこの大会では調子を落とし、決勝の9回は若きダルビッシュ有が前日に続き登板、韓国に追いつかれてしまった。その直後に球史に残るイチローの勝ち越し打が出てダルビッシュは勝利投手になっている。
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最後の打者を三振にとり雄叫びを上げるダルビッシュ有 2009年3月23日@ドジャー・スタジアム (C) Getty Images
決勝戦の最終回を僅差のリードで迎えたら、多くの監督が自軍で最強の投手を選ぶと思う。全盛時の藤川球児や佐々木主浩や岩瀬仁紀など、自軍最強の投手がクローザーの場合は何の迷いもないが、そうでない場合、この場面で先発のエースを使う場合にはクローザーのプライドはつぶされる。
今年のWBC決勝の9回、救援陣は松井裕樹、宇田川優希、山﨑颯一郎の3人と先発要員宮城大弥が前日の準決勝で投げていない。それらの優秀な侍投手たちをさしおいて選ばれたクローザーが3番打者として先発出場をしている大谷翔平だったのである。
今回どの評論家からも、この場面で使われなかった投手たちからも批判や不満のことばは出ていない。
それほど大谷の力量が突出しているということになる。
それに、上述の阿波野、田中、ダルビッシュにしても、誰もその試合の打席には立っていない。あの場面で登板する投手がクリーンアップの打順で打線の責任を負いながら、ユニフォームを汚して登板に備えるなどベーブ・ルースでも経験しなかったのではなかっただろうか。
それでも「情けない」と思った投手の心情を私たちは知っておきたい。そこで悔しい思いをかみしめてなければうそだと思う。
もし栗林や松井が万全の状態でも栗山英樹監督はあの場面で大谷を起用したかどうか、聞いてみたいものである。
世間は大谷を二刀流というけれども、この大会について彼は三刀流である。通常は先発投手とクローザーは投手と打者と同じくらい分業しているからである。
さらにつけくわえるならば、大谷翔平は走塁もすばらしい。スピードもベースの回りかたもスライディングも非の打ちどころがない。周東佑京に匹敵するレベルではないだろうか。
先発出場を続けている以上この大会で代走に使われることはなかったけれども、今シーズンの終盤で勝負どころにさしかかったとき、エンゼルスの監督が彼を代走起用するのではないかと私は考えている。
四刀流の完成もある。ベーブ・ルースは俊足ではかった。
もうことばが見つからない。
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著者プロフィール
篠原一郎●順天堂大学スポーツ健康科学部特任教授
1959年生まれ、愛媛県出身。松山東高校(旧制・松山中)および東京大学野球部OB。新卒にて電通入社。東京六大学野球連盟公式記録員、東京大学野球部OB会前幹事長。現在順天堂大学スポーツ健康科学部特任教授。