■世界中のファンは一瞬にして恋に落ちた
ボクシングという素晴らしいスポーツに魅せられ、観戦を続けて50年になる。幾多の才能ある選手を目撃し、歴史に残るファイトに心を躍らせてきた。誰が一番強いか、という質問は無意味だと考えているが、最愛のボクサーなら挙げることができる。あの男、マイク・タイソンである。
1970年代前半から10余年、ヘビー級は相手から距離をとるスマートなアウトボクシングが主流であった。モハメド・アリと彼の後継者、ラリー・ホームズが王座に君臨し、ライバルたちも盛んに速い足を使った。
そこに登場したのがタイソンだった。試合開始のゴングと同時に問答無用に相手を吹っ飛ばす。ジャブの突き合いやペースの探り合いは一切不要。タイソンは、気だるいアウトボクシングを叩き潰した革命的なファイターだった。彼の闘う姿に、世界中のファンは一瞬にして恋に落ちたのだった。
なお、タイソンが18歳でプロデビューしたのは1985年。ラリー・ホームズがIBF世界ヘビー級王座から陥落した年だ。
■27連勝で史上最年少ヘビー級チャンプになる
タイソンはただ強いだけのボクサーではなかった。
トランクスは黒一色。白いタオルの中央に開けた穴から頭を出してガウン代りにした。その飾りっけのない潔さは、武士道を連想させた。
そして、タオルを脱ぎ去ると、いつもぐっしょりと汗をかいていた。控え室でみっちりとウォーミングアップを済ませているのだ。それはエンジンとタイヤを温めてスタートダッシュに賭けるレーサーの猛々しさだった。
20歳5カ月、28連勝で史上最年少チャンプになると、翌年には早くも3団体を統一。その倒しっぷりは派手になる一方だった。彼にかなうチャレンジャーはいない! この男への恋心は炎のように燃えた。
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1986年11月22日、マイク・タイソン vs トレバー・バービック (C)Getty Images
■東京ドームで、まさかのKO負け
しかし、別れは唐突に訪れた。1990年東京ドーム。駆けつけたぼくの目の前で、彼はジェームス・ダグラスに大番狂わせのKO負けを喫したのだ。今、そこで起こったことが信じられなかった。覚えているのは、試合後、ドームの外に凍るような氷雨が降っていたことだけだ。
敗因は後に明らかになる。金、酒、女性、ギャンブル。プロモーターのドン・キングに甘やかされ、彼は堕落していった。才能だけでベルトを維持できるほど甘い世界ではない。そんなことは誰でも知っている。当然のことだ。
その後がさらに酷かった。リング外でスキャンダルなどを繰り返し、25歳からの3年間を刑務所で過ごした。29歳でカムバックしたが、20歳の輝きを取り戻すことはついになかった。
■ミット打ちを見てびっくり。これは大変だ!
タイソンがリングに戻ると聞いたのは、2020年5月のことだった。しかし、そのニュース聞いても、心が熱くなることはなかった。復帰した「かつての英雄」は何人もいるが、ガッカリすることがほとんどだ。54歳の醜い姿となった“かつての恋人”を、いったい誰が見たいだろうか?
ところが、直後にYouTubeに公開されたミット打ちを見てぶっ飛んだ。両腕を顔の前で揃える独特のピーカブー・スタイルから素早いヘッドスリップ。すかさず左右フックから右のショートアッパー。速い! これはすごい。ぞくっと鳥肌が立った。これは大変なことになったぞ!
その後、対戦相手がロイ・ジョーンズと発表された。ロイ・ジョーンズといえば、ミドル級からヘビー級までの4階級でベルトを巻いたスピードスターだ。全盛期の彼はパンチを一発も食わずに試合を終わらせることができた、まさに天才肌のボクサーだ。
しかも、2年前まで現役を続けていたという。御年51歳というが、若々しいファイトを見せてくれるに違いない。
■10億円のファイトマネーはすべてチャリティーに
当初、試合は9月21日に予定されていたが11月28日(日本時間29日)に延期。さらに、直前になって会場がカリフォルニア州ディグニティ・ヘルス・スポーツパークから、ステイプルズ・センターに変更となった。何やら波乱含みだが、それくらいのほうがタイソンらしくていい。
ルールは1ラウンド2分の8ラウンド制。10オンスではなく12オンスのグローブを使用、ヘッドギアは使わない。アメリカのコミッションは、あくまでもエキシビションマッチでジャッジもいないと発表している。なお、タイソンはファイトマネーの1000万ドル(約10億4000万円)をすべて寄付するとインタビューで語った。
さて、どんなファイトを見せてくれるのか。試合が近づくにしたがってドキドキしてきた。昔の恋人が魅力的なままでいることを願うばかりである。
著者プロフィール
牧野森太郎●フリーライター
ライフスタイル誌、アウトドア誌の編集長を経て、執筆活動を続ける。キャンピングカーでアメリカの国立公園を訪ねるのがライフワーク。著書に「アメリカ国立公園 絶景・大自然の旅」(産業編集センター)がある。デルタ航空機内誌「sky」に掲載された「カリフォルニア・ロングトレイル」が、2020年「カリフォルニア・メディア・アンバサダー大賞 スポーツ部門」の最優秀賞を受賞。