1981年、星条旗の米国チャンピオンジャージを身にまとったジョナサン・ボイヤーがルノージタンチームの一員としてツール・ド・フランスに初出場した。テンガロンハットをかぶってスタート地点に登場するようなプレイボーイで、またたく間にフランスの女のコのハートをわしづかみにする。ベルナール・イノーのアシスト役だったが、毎年総合成績の上位で完走した。
ボイヤーを追うように、84年にはグレッグ・レモンがツール・ド・フランス初出場。そして86年には米国勢として初の総合優勝を達成すると、スポーツ大国のアスリートたちが一気に自転車競技に流れ込むことになる。
ボクがツール・ド・フランスを初めて取材したのは1989年。その年のはじめに、ボイヤーと日本で偶然知り合うことができた。出会ったのは北関東にある小さな町の内科医院だった。その地方病院の開業医は、人体から血液を一時的に採り出して冷凍保存し、しかるべきときに体内に戻すという医療行為を研究する先駆者だった。
ボイヤーに「7月になったらツール・ド・フランスに初取材に行く」と告げると、「ホテルを取るのは困難だから、オレに任せろ」と言って再会を誓った。そして現地に行くと、ボイヤーは自らが広報を務めるPDMチームの空き部屋をあてがってくれたり、あるいは彼がゴール地点の町をかけずり回って見つけてくれた。感謝の言葉を伝えると、映画スターばりのニヒルな表情でウインクして見せた。
2年後にチームは全選手がツール・ド・フランス期間中に集団発熱し、チーム全員がリタイアした。血液ドーピングの失敗かとうわさされた。ボイヤーの姿を欧州レースの現場で見ることは二度となかったが、彼が新天地としたのがアフリカ大陸だった。
ルワンダのナショナルチームコーチとして現地に住み込んで情熱を注いだようだ。舗装路もままならない土地で、ロードバイクを走らせるという文化は全くなかったが、1からこの競技の魅力を伝え、それが大陸全体のレベルを押し上げたのは言うまでもない。2013年の第100回ツール・ド・フランスでは、ケニアで生まれ南アフリカで育ったクリストファー・フルームが総合優勝するまでになった。
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MTNクベカ
2015年にはアフリカ勢初のチームとしてMTNクベカがツール・ド・フランスに参戦してくる。9人のメンバーには南アフリカ選手が3人、エリトリア選手が2人起用された。クベカは大陸の子供たちが自転車に乗る機会を提供する慈善団体だ。自分たちの国の選手が華やかな大舞台を走り抜ける姿を見て、その国の子供たちはどんな印象を持つだろう? 潮流はアジアからアフリカへ。日本勢もあなどってはいけない。