【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

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【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る
  • 【三菱ラリーアート正史】第1回 ブランドの復活宣言から、その黎明期を振り返る

三菱自動車加藤隆雄代表執行役社長(兼最高経営責任者 以下加藤社長)は2021年11月30日、ニュースリリースを通してこう発した。

「三菱自動車、そしてラリーアートファンのみなさまへ、ラリーアートブランドの新しい商品をお届けできる事をとても嬉しく感じております。(中略)新生ラリーアートにどうぞご期待ください」。

タイで公開された、ともに現地仕様車のトライトン(ピックアップトラック)とパジェロスポーツ(SUV)の「ラリーアート」発売に際してのコメントだ。三菱自動車のモータースポーツ活動全盛期に社員として過ごし、また少なからず関わった一人として、待ちに待ったその一言に、魂を揺さぶられた

タイで発売となったトライトン、パジェロスポーツ (C)三菱自動車

■歴史をなぞるRALLIART復活劇

2021年5月の三菱自動車決算報告で発表されたブランド復活宣言から半年を経て、初めて形にされたラリーアートの新しいスタート。海外での商品設定が先になったのを少々残念に思ったファンも多かっただろう。しかし海外で先行するのは、かつてのRALLIARTと同じ。再び歴史をトレースしようとしているかのようだ、と私は思った。

年が明けて2022年の東京オートサロンでは今後のビジョンを示すコンセプトカー「Vision RALLIART Concept」とともに、新型アウトランダーPHEVエクリプスクロスPHEVに市販予定のラリーアート用品を装着し展示、ロゴ入りキャラクター商品の試験販売がされた。いよいよラリーアートが日本でも動き出したのだ。

◆「パリダカの三菱」が復活か 東京オートサロン2022で『VISION RALLIART CONCEPT』お披露目

東京オートサロン2022でお披露目されたVISION RALLIART CONCEPT (C)三菱自動車

 かつてのラリーアートが事業を停止したのが2010年3月。それまで三菱自動車のモータースポーツ事業運営を担い、世界ラリー選手権WRC)やダカールラリーでの数々の栄冠をもたらすと共に国内外のプライベーターの支援、ファンサービスなど広範囲の業務で三菱自動車の販売促進とイメージアップに貢献していた。2009年のダカールラリーを最後にワークス・モータースポーツ活動を終了した三菱自動車は、翌年にはユーザーサービス窓口として機能していたラリーアートも、対外的には業務縮小と表現されたものの、業務を終了させた。

三菱自動車は消費者と向き合うB to Cの企業だ。付加価値の高い耐久消費財である自動車を販売会社を通して消費者に届けるのが使命。企業間取引のB to Bの企業が看板事業を廃止して新聞の経済面をにぎわす以上の落胆を、ファンや関係者にストレートに与えたのは紛れもない事実だろう。

時は流れ、いまだ業績回復の途上にある三菱自動車は長らく封印していた「ラリーアート」の復活を決断した。10年を超える空白期間に、三菱をモータースポーツの側から支えたラリーアートの存在を知らない世代も増えてきていると思う。その証左に、ラリーアートに関するメディアやネットの記述、また今回の復活宣言以降に掲載された記事などを読むと誤りの多さにも気づく。

そこで、三菱自動車にとってラリーアートとはどのような存在だったのか、どんな役割を果たしてきたのかを改めて確認するため、当時三菱自動車の末端に席を置きながらもラリーアートと浅からぬ関わりを持った私が筆を取った次第である。

■RALLIARTからラリーアートへ

株式会社ラリーアートが設立されたのは1984年4月。私は、学生時代のその当時、既にラリーアートとは接点があった。父が勤務する三菱ふそう系販売会社で懇意にしていたメーカーのロードマン、つまり三菱自動車と販売会社の窓口役で、今で言えばフィールドマネージャーの異動先が「宣伝・ラリーアート」となり、父を通して私の元にもラリーアートのグッズやミラージュカップの招待券が届いていた。もっとも、学業終了後の進路に三菱自動車を志したのは別の理由ではあるが……。

「RALLIART」という呼称は株式会社ラリーアートの設立以前、1981年にランサーEXターボでWRCに復帰した際に三菱チームに冠されていた。ラリーに出場する海外プライベーター向けのパーツカタログには「RALLIARTとは、モータースポーツをアートの領域に高める三菱自動車のモータースポーツプログラムの名称である」と記されていた(原文英語・意訳)。

WRCデビューしたランサーEXターボ (筆者提供)

1983年、パジェロの「パリ・ダカール・ラリー」初出場(市販車無改造クラス優勝)でもRALLIARTのロゴが控えめに配されているのも、チーム名と言うよりプログラム呼称とされたがゆえであろう。

1983年パリ・ダカール・ラリー出場のパジェロ (撮影:平賀一洋)

■ラリーアート・ヨーロッパの始動

パジェロが砂漠への挑戦を始めた頃、WRCは4WDターボ (アウディ・クワトロ)の出現で変革期を迎えていた。三菱はランサーEXターボに代えて、スポーツクーペのスタリオンを4WD化しての参戦を決める。これに伴い活動拠点をオーストリアから英国に移し、RALLIART EUROPE(以下RAE=ラリーアート・ヨーロッパ)が始動する。

スタリオン4WDラリーが挑むのは当時のWRCトップカテゴリーであるグループB。WRC出場のためとはいえ200台の市販義務が課されるのだから、ラリーの実動部隊だけで進められるものではない。純粋に自動車メーカーのプロジェクトだ。

ちなみにインターネットでは1970年代から三菱のパートナーであったラリードライバーの故アンドリュー・コーワン氏が「ラリーアートの創設者」であるとの表記が見られるが、これは誤りである。コーワン氏は英国の会社法の規定に基づき、RAEに人材と機材を提供するための「アンドリュー・コーワン・モータースポーツ(ACM) 」を設立。このACMが後にドイツで設立される三菱自動車モータースポーツ(MMSP)に買収、子会社化されるに至った。このことがあたかもMMSPがラリーアートの後継組織であるかのような誤解を生じたかもしれない。

幻の名車スタリオン4WD RALLY (筆者提供)

 そして1984年4月、英国でRAEがスタリオン4WDラリーのテストを進める一方、日本では三菱自動車全額出資のモータースポーツ事業会社として「株式会社ラリーアート」が設立される。商品企画、広報宣伝など各部門から人材が集結し、本拠は宣伝部内に置かれた。

当時三菱自動車宣伝部に所属し国内モータースポーツ等を担当していた須賀健太郎氏(後にラリーアート兼務)によると、「ラリーアート」という新しい組織とブランド名のもとで、三菱自動車のモータースポーツ活動を推進するプロジェクトの一翼を担う、すなわち「新しい仕事を作り出すというやり甲斐」を感じていたとのことだ。

ラリーアートには、1960年代からの三菱自動車の実戦活動におけるワークスチームとしての権能が「コルトモータースポーツクラブ(CMSC)※注記事末」から移管された(当該記述は『三菱自動車工業株式会社社史』による)。これに伴い国内でのモータースポーツ活動も活発になる。モデルチェンジしたミラージュ(C13A)でのワンメイクレースが開始され、ラリーやオフロードレースなどでも三菱車にはRALLIARTのロゴが誇らしく輝いた。

同時期スタリオンは海外のサーキットレースでも英国ディーラーチームなどが活躍しており、日本でもラリーアートによって全日本ツーリングカー選手権に投入された。ミラージュカップで頭角を現したモータージャーナリストの中谷明彦氏、そして当時は日産のイメージの強かった高橋国光氏の起用はレースファンに驚きをもって迎えられた。後の三菱WRCチームの木全巖(きまた・いわお)総監督やアンドリュー・コーワンRAE代表の姿がピットにあったのも、なかなかユニークだった。

スタリオンは当時グループAツーリングカーレースで強さを発揮していたボルボやジャガーの、日本遠征での楽勝ムードを吹き飛ばしもした。ジャガーチームの監督トム・ウォーキンショーは「あのクルマは一体何だ!?」と驚きを隠さなかったという。いずれも「ラリーの三菱」しかご存じない方々には新鮮なエピソードかもしれない。

JTCスタリオン(C)三菱自動車

しかし、WRCに挑もうとしたスタリオン4WDラリーの参戦計画は頓挫する。邦貨にして当時800万円を超えると言われた車両価格の高額化、市販車にふさわしくない振動と騒音の問題 (木全氏によると、ラリーカーでは熱の問題も大きかったという。トランスミッション・ケースに接する右脚は低温ヤケド、レーシングシューズの底は溶けたそうだ)から市販計画がキャンセルされたのだ。WRCにおけるグループBも先鋭化するマシンにより相次いだ競技中の事故で、1986年限りで廃止された。

RAEは未公認車両も出場可能なイベントにスタリオン4WDラリーのスポット参戦や、後輪駆動のグループAスタリオンを中東などのリージョン選手権に投入し、来るべき浮揚のときに備えることになる。

※コルトモータースポーツクラブ(CMSC)

1964年に設立された、日本自動車連盟 (JAF)登録クラブ。当初は三菱自動車の実戦参加を担っていたが、株式会社ラリーアートの発足以降は日本各地に三菱ユーザー主体で設立された支部を統括するためラリーアート内に本部を置いた。設立経緯から三菱自動車とラリーアートの社員で構成された本部に対し、支部はモータースポーツ愛好家であるユーザー主体であった。それら支部所属の選手からもセミワークス的に起用されるケースもあり、他のメーカー系列のモータースポーツクラブとは違った特色を有した。

三菱自動車のみならずモータースポーツ界に貢献してきた人物を会長に戴き(初代・外川一雄、第二代・木全巖、 現・田口雅生)、ラリーアートの業務終了以降は本記事中にも登場する須賀健太郎氏が本部事務局長として組織を維持し、現在も30の支部と約800名の会員で活動を続けている。

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著者プロフィール

中田由彦●広告プランナー、コピーライター

1963年茨城県生まれ。1986年三菱自動車に入社。2003年輸入車業界に転じ、それぞれで得たセールスプロモーションの知見を活かし広告・SPプランナー、CM(映像・音声メディア)ディレクター、コピーライターとして現在に至る。

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