【THE INSIDE】PL学園野球部、この夏を最後に休部…高校野球の一時代を形成 | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【THE INSIDE】PL学園野球部、この夏を最後に休部…高校野球の一時代を形成

オピニオン コラム
桑田真澄 参考画像
  • 桑田真澄 参考画像
  • 立浪和義たちの活躍で春夏連覇を達成
1980年代に黄金時代を築き、高校野球で一時代をなしていたPL学園。この夏を最後に野球部は休部となるということが報じられた。

図らずも黄金時代を築いたひとり、清原和博容疑者が世間を騒がせているタイミングでの報道である。栄枯盛衰、時代の流れ、そんな言葉だけでは表すことはできない。

PL学園野球部は現在2年生部員が12名在籍している。とりあえず今春の大阪府大会と、第98回全国高校野球大阪大会への出場は可能だ。しかし、以降部員がいないということで、当面は休部状態になるとことが伝えられた。

■PL学園、その栄光の歴史

ひとつの高校野球部の存在がこれだけクローズアップされるのは、PL学園にそれだけの歴史と実績があるからである。そんなことは言うまでもないかもしれないが、改めて栄光の歴史を追ってみよう。

PL学園は1955(昭和30)年にパーフェクトリバティ教団を母体として創立。教団の頭文字をとって「PL」としている。野球部が台頭してきたのは創立から数年が経過してからだ。

最初に注目されたのは1963年春。戸田善紀投手(阪急→中日)を擁して3季連続で出場すると、大会記録となる21奪三振を達成した。そして1970年夏にエース新美敏(日本楽器→日拓・日本ハム→広島)と遊撃手の行沢久隆(中央大→日本ハム→西武)、主砲の新井宏昌(法大→南海→近鉄)などで準優勝を果たす。これで強烈に印象付けた。

山本(鶴岡)泰監督が就任して1976年夏にも準優勝。延長11回で桜美林に敗退したが、その戦いぶりは高校野球ファンの記憶に残るものだった。以来、徐々に甲子園の常連となっていく。

1978年夏に西田真二(法大→広島)と木戸克彦(阪神)のバッテリーで念願の初優勝を果たす。しかも、9回二死0-2からの逆転サヨナラ勝ちだった。この頃から「逆転のPL」と称せられるようになる。

その神がかり的な逆転劇と粘り、打席に入る選手が胸のお守りを握ったりする行為も特徴的だった。こうして宗教校としてのイメージも強く残していった。

■KKコンビの登場

そして迎えた次の時代、中村順司監督が就任。PL学園の歴史の中でも別格とされる黄金時代である。"KKコンビ"と呼ばれた桑田真澄(読売→パイレーツ)、清原和博(西武→読売→オリックス)のふたりの選手がいた時だ。

1年生で甲子園優勝投手となった桑田はその後も甲子園で勝ち続ける。高校生として甲子園出場可能な5度の機会すべてに出場を果たす。いずれもベスト4以上に残る驚異的な強さだけではなく、強運というか、そういう要素も含めて見事としか言いようがない。

これでひとつの時代が終わったかと思ったら、そうではなかったところがPL学園のすごいところだ。その2年後には、多くの人がやがてPL学園が達成するだろうと思っていた春夏連覇をあっさりやってのけた。


立浪和義たちの活躍で春夏連覇を達成

野村弘(横浜)、橋本清(読売)、岩崎充宏(青山学院大→新日鐵名古屋)という投手3枚看板に、立浪和義(中日)、片岡篤史(同志社大→日本ハム→阪神)、宮本慎也(同志社大→ヤクルト)と後にプロ入りするメンバーが目白押しのスーパーチームだった。春夏通じての11試合で1点差試合は春の帝京との準々決勝、延長の末の3-2だけだった。しかも、その帝京と再度戦った夏の準決勝では12-5と打ちのめしている。

その後も1998年の横浜との延長17回の死闘など、球史に残る試合を幾つも演じてきた。しかし、前田健太(広島→ドジャース)を擁してベスト4に残った2006年春が最後の輝きとなった。2009年に春夏出場して、夏に3回戦進出を果たしたものの、それを最後に甲子園出場は途切れていた。

■学校長が監督を兼任

一昨年あたりからPL学園の生徒募集が危うくなってきた。野球部員も集まらないと報じられ、監督も不在。やがて状況を見かねた草野裕樹校長が、野球経験はなかったが監督に就任して指揮を執っていた。

2015年夏の大阪大会は、かつて同じ大阪で一時代を形成した大体大浪商(旧浪華商・浪商)に敗れはしたものの、ベスト8に進出して気を吐いた。

しかし新入部員のいない中で、チームの維持は困難となってきた。秋季大会はブロック予選の初戦で汎愛に延長の末敗退。草野監督も2016年3月末で定年退職となることから、学校職員で剣道部出身の川上祐一氏が監督に就任することが発表された。

一高校の野球部監督の交替がスポーツ紙などで報じられることは異例だが、それだけPL学園の存在は大きかったということだ。

折しもPL学園の黄金時代を形成した象徴的存在であり、甲子園で13本の本塁打を放ち、プロ野球のスター街道を走り切った清原和博容疑者が、覚醒剤保持と使用の容疑で逮捕された。その事件がスポーツ紙をにぎわせた直後のことであり、盛者必衰をあまりにも強調するかのようなタイミングに寂しさは増す。

甲子園出場は春20回、夏17回。甲子園での通算成績は96勝30敗で優勝7回、準優勝4回、ベスト4が6回。輝かしい数字である。

この夏で一旦休部になるが、果たしてこの数字を上乗せしていくチャンスがその後に訪れるのだろうか。再開の見込みは未定ということだ。

高校野球の舞台でも大きな時代変革が起きているということを再認識させられた思いである。
《手束仁》

編集部おすすめの記事

page top