【山口和幸の茶輪記】ツール・ド・フランス、無事に凱旋…パリは厳戒態勢  | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【山口和幸の茶輪記】ツール・ド・フランス、無事に凱旋…パリは厳戒態勢 

オピニオン コラム
凱旋門をまわるマイヨジョーヌのクリストファー・フルームら。選手が無事にゴールできて本当によかった
  • 凱旋門をまわるマイヨジョーヌのクリストファー・フルームら。選手が無事にゴールできて本当によかった
  • シャンゼリゼ1周目、選手らがコンコルド広場から凱旋門に向かう瞬間に視線の先からフランス空軍が飛んできた。秒単位で計算し尽くされた演出だ
  • すべてのアプローチでパリ警察が観客や関係者のボディ&荷物チェックを実施
  • 凱旋門を軸にしてシャンゼリゼの反対側、グランドアルメ通りで。集団後方を走っていた新城幸也がVサインをしてくれた。ゴール後に会ったら「凱旋門バックのVサイン、撮れましたか?」
  • シャンゼリゼでの最後の表彰
フランス革命記念日を祝福する夜の花火大会をねらったニース目抜き通りのテロ。観衆が集まる大きなイベントが標的にされた。ツール・ド・フランス最終日のシャンゼリゼも大勢の人が集まるが、大会は卑劣な行為に屈しない気概を見せた。パリに厳戒態勢を取らせ、見事に選手らをゴールさせた。

1周6.5kmの特設サーキット。フランスの英雄ナポレオンがそうしたように、今年はエトワール凱旋門を突っ切って、世界で最も有名な大通りにやってきた。革命時にはルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンによって命を絶たれたコンコルド広場を通過。セーヌ川沿いに突っ走り、ルーブル美術館手前のルモニエの地下道を通ってチュイルリー公園を抜ける。反対側のリボリ通りに出たら、再びコンコルド広場に戻ってシャンゼリゼのゴールへ。

■ツール・ド・フランスの凱旋

パリ中心部のこんな観光名所にアクセスする道は何百もある。パリ当局はこの日、テロ警戒のためにすべてのアプローチに鉄柵を設置して、憲兵隊とパリ警察によってすべての観客の荷物チェックを実施した。観光大国フランスのバカンス時期の目玉である世界的イベント、ツール・ド・フランス凱旋をテロ標的にさせないためのフランス国家としての意地だったと思う。


すべてのアプローチでパリ警察が観客や関係者のボディ&荷物チェックを実施

ツール・ド・フランスの取材記者証を首からかけたボクも観光客と同様に荷物チェックを受けた。もっと厳密に言えば、ツール・ド・フランス開幕時から連日、ゴール地点周辺に設置されるサルドプレス(プレスセンター)に入場するときは荷物チェックを受けた。もちろん大会の警備員は数年来の顔なじみである。「今日もかよ」と思ったが、「ゴメンね。決まりなんだ」とバッグのファスナーを開ける。これで事件が防げるのならこちらとしてもありがたいので、もちろんイヤな気分はしない。

テロの語源は1789年に始まったフランス革命で、ジャコバン派のロベスピエールが推進した恐怖政治「テルール」である。ロベスピエールはツール・ド・フランスもたまに訪れるフランス北部のアラスの弁護士だったが、野望を胸にパリに進出。ジロンド派の党員となるが、国会では議場の席の一番高いところに陣取っていたもので「山岳派」なんて呼ばれた。しかしルイ16世やマリー・アントワネットを次々と粛正していったロベスピエールも、革命晩年に同じコンコルド広場で断頭台の露と消えていく。


集団後方を走っていた新城幸也がVサインをしてくれた

それにしても7月のパリは暑い。毎年フランス一周の旅の果てに、コンコルド広場の焦がれた石畳の上に腰を落として選手たちを待とうとすると、目玉焼きになりそうな気分さえする。フランス革命暦の7月は、テルミドール(熱月)とも言われたのだから、それもそのはずだ。こうしてもう何回、コンコルド広場で熱い思いをしたことだろう。ここはツール・ド・フランスの最終到着地点であり、選手たちはまさにここを目指して地上で一番過酷なレースを戦い抜くのである。

選手たちがパリを目指すように、ボクたち取材陣もパリを目指して23日間の旅を続ける。リタイアしそうになるのはボクたちも同じだ。パソコン、カメラ、クルマ、胃袋(?)、あらゆるものが壊れ、それをなんとかしのぎ切ってパリに到達する。ある意味でツール・ド・フランスを追いかけることで、選手と同じ目的地に向かって走り続けるという共有の夢を見ることができる。だからハンドルを握る視界の先に「PARIS」の標識が見えたときは、選手もボクも涙が出るほどうれしいのである。


コンコルド広場から凱旋門に向かう瞬間に視線の先からフランス空軍が飛んできた (c) ASO/G.Demouveaux

コンコルド広場には、戦いを終えた選手たちを待ちわびる家族や恋人の姿がある。真夏のフランスを駆け抜けた男たちは、ゴールすると真っ先にここを目指して、最愛の人たちを探す。アルプスのガリビエ峠やピレネーのツールマレー峠を超人的なスピードで飛び去っていったマシンが、人間の眼差しを取り戻すこの瞬間が一番感動的だと思う。そこに家族が居合わせないスペインチームの選手たちは、表彰式やシャワーもそこそこに空港行きのバスに乗り、マドリードへと向かう。それだけこのレースは長く果てしない。

革命200周年の1989年にはここで米国のグレッグ・レモンが最終日に8秒という僅差で逆転劇を演じた。ボクの初取材の最後の1日だった。そんなボクが、ライフワークとしてツール・ド・フランス取材を続けるきっかけとなったことがある。それは高校時代の選択授業だ。英語を身につけたかったので「フランス革命の指導者たち」という英書を読む講座を学んだこと。本の中心人物はロベスピエールで、一気にフランスへの興味がわき、なぜか英語じゃなくてフランス文学科に進学することに。あの授業がなかったらテロの脅威にさらされながら今年のパリには行ってなかったなあ。
《山口和幸》

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