【サッカー】元日本代表MF稲本潤一インタビュー/第2回:技術編 海外の記憶 C.ロナウドからボールを奪えた理由とは | CYCLE やわらかスポーツ情報サイト

【サッカー】元日本代表MF稲本潤一インタビュー/第2回:技術編 海外の記憶 C.ロナウドからボールを奪えた理由とは

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【サッカー】元日本代表MF稲本潤一インタビュー/第2回:技術編 海外の記憶 C.ロナウドからボールを奪えた理由とは
  • 【サッカー】元日本代表MF稲本潤一インタビュー/第2回:技術編 海外の記憶 C.ロナウドからボールを奪えた理由とは

W杯3大会出場を誇り、長きに渡り日本サッカー界をリードしてきた稲本潤一選手。42歳の現在に至るまで第一線でプレーできる秘密はどこにあるのか。第1回の「トレーニング編」に続き、第2回は「技術編」をお届けする。岸田文雄首相は自身の長所として、「聞く力」による柔軟性を挙げているが、さしずめ稲本選手は「考える力」「見る力」をもとにした向上心が支えとなっているようだ。

◆【インタビュー:トレーニング編】稲本潤一が長くプレーできる秘訣「身体の変化を見逃さない」

■G大阪で学んだ“止める・蹴る”

当たり前だが、フィジカルを鍛えるだけでは試合には出られない。サッカーはあくまでボールを介したスポーツ。試合に出るためには、ライバルたちよりボールを扱うスキルで優位に立つ必要がある。足元に不安のある選手が監督から信頼を得られるわけもなく、もし不安を解消できなければ、出場機会は遠のく。そういう生存競争が繰り広げられる中、稲本選手は常に試合に絡み、今日まで現役を続けてきた。そこには「技術」という裏付けがあるからに他ならない。そして、その源泉がジュニアユースから所属したG大阪のアカデミーにあることは容易に推察できる。家長昭博(川崎F)や宇佐美貴史(G大阪)、堂安律(PSV)、そして元日本代表MF本田圭佑ら有力選手を多数輩出してきた、日本きっての下部組織で何を学び、そして今につながっているのだろうか。

「技術的な『止める・蹴る』は今でこそよく言われますが、ボクはジュニアユースの時から、そこは口酸っぱく言われていましたし、何ならそれしか言われませんでした。ですから、今も意識していることは確かですし、『止める・蹴る』をG大阪アカデミーで学べたのは良かったと思っています」

稲本選手について語る上で、海外移籍は外せない。日本でプレーしていた時は、フィジカルで負けることは皆無だったが、海外に行けばそうはいかない。屈強な外国人選手に立ち向かう武器、それが日本で培った技術だった。

「ボクがプレーしていた当時のイングランドはキック&ラッシュが主流で、そこで1対1に持ち込んでも、(体格で劣る)日本人のボクはなかなか勝てない。では、どうすれば生き残れるのか。それを考えると、やはり技術では負けていないな、と。どうやってこの技術を生かそうか、それをずっと考えていました」

■「考える」「見る」で出場機会創出

フィジカルでは負ける、でも技術なら勝てる。試合に出るために、どうやってその技術をアピールするか、それを日頃から考えていたという。さらに、練習ではライバルとなるチームメートを徹底的に「見る」ことも重要だった。

「試合に出られない時は、代わりに出ている選手がなぜ出番をもらっているのか、というのを観察して、じゃあボクは何をしたらいいのか、というのを常に考えながらやっていたので、正直、戦術などはあまり気にしていなかったですね(笑)。基本的に海外だと1対1に勝つことがまず大事で、ボクも1対1の局面でいかに相手を上回ることができるか、そこを中心に考えていました。海外では、例えばスペースに走り込んだりする動きなどはあまり評価されないというか、そこ(オフ・ザ・ボール)で選手の評価が上がるかといえば、そうでもなかったと思います」

戦術遂行能力より、まずは1対1(デュエル)を制することを求められる点は、いかにも海外らしい。実際、稲本選手もプレミアリーグの名だたるスターたちを止めて株を上げたこともあった。

「当時は、マンチェスター・ユナイテッドにいたクリスティアーノ・ロナウド(今シーズン、13年ぶりにマンU復帰)とも試合をしましたが、自分の間合いで詰めたらボール奪取はできました。相手にはポール・スコールズらそうそうたるメンバーもいましたが、彼らからはボールを奪えましたね」

クリスティアーノ・ロナウドと競り合う稲本潤一(2006年/ロイター)

■レベチだったジダン ボール取れず

稲本も「別格」と評したジネディーヌ・ジダン(2001年/Getty Images)

今でこそドイツ・ブンデスリーガで日本代表MF遠藤航(シュツットガルト)がデュエル王に輝くなど、日本人選手が外国人選手相手に1対1で負けなくなったが、その先鞭をつけたのが稲本選手だったと言える。しかし、その稲本選手をもってしても手に負えない選手がいた。それはリーグ戦ではなく、代表戦でのマッチアップだった。

「フランス代表と戦った時のジネディーヌ・ジダンはスーパーでしたね。ボール、マジで取れなかったです(笑)。ロナウドやスコールズからボールを奪えても、ジダンに関して言えば全然無理でしたね、取れませんでした。懐が深いし、体も大きいから、そもそもボールが見えませんでした(笑)。それに、とにかくジダンは高い技術を持っていましたから、ちょっと別格でしたね」

日本のサッカーファンが世界との差を感じた一戦。ジダン率いるフランス代表に日本代表が子ども扱いされ、0-5で大敗した2001年の「サンドニの悲劇」で稲本選手は先発していたのだ。しかし、そんな苦い経験も糧となり、結局9シーズン、海外でプレー。イングランド、トルコ、ドイツ、フランスとオファーは絶えなかった。どの国に行っても技術の生かし方を考え、ライバルのプレーを観察し、自分に足りない部分を補った。そうすることで出場機会を得て、ここまで現役生活を続けることができたように思えるが……。当の稲本選手本人はどう考えているのだろうか。最後に自己分析してもらった。

「ボクができることは何かと言えば、常に良い準備をして、常に練習でアピールして、常に闘い続けることだけです。『うまくなりたい』という向上心を持つことが、たぶんチームにも良い影響を与えるだろうし、今だと若い選手にも良い作用を及ぼすことになると思っています。だから、ボクが小野伸二選手や中村俊輔選手くらいうまいかって言われると、それはない。でも、『そういう選手たちに追い付くぞ』という思いを持ってトレーニングを続けることが大事だと思います。ボクだってまだまだうまくなれるはずですし、いくらフィジカルが強いと言っても42歳でフィジカルが強いとかはあり得ないので、技術でカバーしないと(笑)」

現在もなおスキルを伸ばそうとする向上心。それを持ち続けてきたことが、長い現役生活を支える要因になったと言えるだろう。

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■編集後記

インタビューを通じて、稲本選手がよく口にしていた言葉。それは「考える」というフレーズだ。出場するためにはどうすればいいのか、そこに絶えず向き合ってきた印象を受けた。そして、この考える習慣は幼少期に身に付けたようだ。以下は、G大阪のジュニアユース、エリート集団に身を置く前の話だ。「ずっとリフティングしていたり、ボールを蹴って壁に当てることを繰り返したり、とにかく常にボールと一緒に過ごしていました。ひたすらボールと遊んで、例えばドリブルやフェイントの仕方などは、自分でどうすれば良いのか試行錯誤しながら取り組んでいました」。つまり、人気漫画「キャプテン翼」を地で行く“ボールはトモダチ”だった頃、すでに自分で考える癖はついていたようだ。「三つ子の魂百まで」ではないが、子供の頃から考え抜くことを苦にしなかったことが、成功の礎となったのかもしれない。サッカー少年少女を子供に持つ親御さんには参考になるだろう。

<PROFILE>稲本潤一(いなもと・じゅんいち)1979年9月18日生まれ。幼稚園でサッカーを始め、中学生ではG大阪ジュニアユースの1期生となる。その後、クラブユース界では知らぬ者はいないほどに成長し、高3時にG大阪でJリーグデビュー。17歳7カ月でゴールを決め、当時の最年少得点記録を作った。2001年にプレミアリーグ・アーセナルへ移籍。イングランドではフルハム、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、カーディフでプレー。2006年からはトルコの名門、ガラタサライに活躍の場を移す。トルコを去った後もドイツ、フランスなど海外のクラブでプレーした。2010年日本に帰還し、川崎Fに所属。その後はコンサドーレ札幌、SC相模原へと移籍し、2022年は関東サッカーリーグ1部に所属する南葛SCでプレーする。世代別代表ではU-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪を経験。2000年2月に21歳でA代表に初招集され、02、06、10年とW杯3大会に参戦。日本代表では通算82試合に出場し、5得点を挙げた。181センチ・77キロ。O型。

取材/文・SPREAD編集部

《SPREAD》
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